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1930年5月31日、アメリカ・サンフランシスコ生まれ。高校卒業後に兵役を経てロサンゼルス市立大学に入学。専攻の経営学と並行してドラマの講義を受講する。ユニバーサルのテストに合格して55年の「半魚人の逆襲」でデビュー。テレビ西部劇『ローハイド』(59~66)で人気に。64年にイタリアへ渡り、「荒野の用心棒」他のマカロニ・ウェスタンで世界的スターとなる。帰国すると製作会社マルパソを設立。「ダーティハリー」(71)などのヒットで不動の地位を築いた。「恐怖のメロディ」(71)からは監督業にも進出。「許されざる者」(92)他で2度のアカデミー賞監督賞に輝くなど、映画監督・俳優として80歳を過ぎた現在もなお活躍が続く。
若い映画ファンには馴染みが薄いかもしれないが、かつては西部劇やアクション映画で活躍するスターだった。その後の刑事アクションに大きな影響を与えた代表作「ダーティハリー」を始め、悪を容赦なく叩き潰す無骨なタフガイのイメージが強い。90年代に入ると年齢の問題もあってアクションには出演しなくなる代わりに、既成のイメージを逆手に取った“昔気質の頑固オヤジ”的キャラクターに移行。これが功を奏して、円熟味を増した演技が評価されるようになり、これまでにアカデミー賞主演男優賞に2度ノミネートされている。また、自分の子どもとの共演も多く、男臭いイメージからはかけ離れた子煩悩な一面も。
1930年3月24日、アメリカ・インディアナ州生まれ。生後すぐに父親が失踪するなど不遇な少年時代を経て海兵隊や様々な職業を転々とした後、演技の道へ。55年にアクターズ・スタジオに入学。56年に「傷だらけの栄光」で映画デビュー。58年から始まったテレビ西部劇『拳銃無宿』の主演で人気を得る。これをきっかけに「荒野の七人」(60)、「大脱走」(63)などに出演して映画スターとしての地位を確立。66年には「砲艦サンパブロ」でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。結婚は生涯に3度。「ゲッタウェイ」(72)で共演したアリ・マッグローと二度目の結婚をして子どもも生まれたが後に離婚。80年、肺がんのために亡くなった。享年50。
自らバイクや自動車のハンドルを握るほどのスピード狂。「大脱走」では有刺鉄線をバイクで飛び越える場面こそスタントを使ったものの、顔が見えないところで自らドイツ兵に扮してバイクを走らせた。カーアクションの草分けとなった「ブリット」(68)では、自らの運転で高速カーチェイスを撮影。71年の「栄光のル・マン」は、実際のレース風景を交えて、セミドキュメンタリータッチで製作されている。アクションに情熱を注ぐ一方で、犯罪サスペンス「華麗なる賭け」(68)、実話を元に脱獄に執念を燃やす男を演じた「パピヨン」(73)などに出演。優等生ではない“反逆のヒーロー”として印象を残した。
1940年4月25日生まれ。アメリカ・ニューヨークでシチリア移民の子として生まれ、子どもの頃から演劇に興味を抱く。高校を中退すると仕事を転々とした後、2度の受験を経てメソッド演技で有名な演劇学校アクターズ・スタジオに入学。舞台を経て、69年の「ナタリーの朝」でスクリーンデビュー。72年に「ゴッドファーザー」でアカデミー賞助演男優賞にノミネート。以後4年連続でオスカー候補となり、たちまち大スターに。人気、実力ともに申し分ないもののアカデミー賞には縁がなく、ノミネート止まりだったが、92年の「セント・オブ・ウーマン 夢の香り」で主演男優賞を初受賞した。
名門アクターズ・スタジオ仕込みの演技力を武器に、イタリア系のスターとして地位を築き上げた。両親が移民で苦労して育ったせいか、クールなタイプよりも情熱や野心を前面に押し出す役柄がハマる。「ゴッドファーザー」を始め「ヒート」(95)、「インサイダー」(99)など、男同士のぶつかり合いで魅せるドラマが多いのも特徴。また、シェイクスピア愛好家としても知られ、舞台に加えて「ヴェニスの商人」(04)に主演。『リチャード三世』を題材にしたドキュメンタリー「リチャードを探して」(96)では、自ら監督にも挑戦している。結婚歴はないが、過去にマルト・ケラーやダイアン・キートンなどとの交際でも話題を集めた。
1943年8月17日生まれ。アメリカ・ニューヨーク出身。両親は画家だったが、2歳の時に離婚。母親の下で育つ。やがて演劇に興味を抱き、10歳の頃から母の勧めもあり、演劇学校に通い始める。高校を中退した後、アクターズ・スタジオに参加してメソッド演技を学ぶ。舞台で経験を積み、1960年代末からブライアン・デ・パルマなどと組んで映画に出演し始める。マーティン・スコセッシ監督「ミーン・ストリート」(73)で注目され、続いて出演した「ゴッドファーザーPART II」(74)でアカデミー賞助演男優賞を受賞。さらに、主演作「タクシードライバー」(76)がカンヌ国際映画祭パルム・ドールに輝くなど、たちまち演技派スターとしての地位を確立。以後は主演、助演を問わず幅広い作品で活躍を続けている。
“デ・ニーロ・アプローチ”と呼ばれる徹底した役作りが最大の特徴。内面から役になり切る“メソッド演技”をさらに追及、役に合わせて体重を増減させたり、髪を抜いたりと、容姿まで含めた役作りは他の追随を許さない。もちろん、外見だけのモノマネでないことは、アカデミー賞ノミネート7回、うち受賞2回という結果が示している。また、マーティン・スコセッシ監督との名コンビも有名。同じニューヨーク出身のイタリア系アメリカ人という共通項もあり、スコセッシによると“言葉にしなくても理解し合える”関係だという。既出以外でも「グッドフェローズ」(90)や「ケープ・フィアー」(91)などが2人のコンビ作として挙げられる。
1925年1月26日、アメリカ・オハイオ州で、スポーツ用品店を経営する裕福な家庭に生まれる。オハイオ大学在学中、海軍に招集されて第二次世界大戦に従軍。終戦後はケニオン大学でフットボール部に所属したが、ケンカ騒動に巻き込まれて退部したことをきっかけに、演劇の道へ。やがてニューヨークのアクターズ・スタジオで学び、54年に「銀の盃」で映画デビュー。続いて初主演した「傷だらけの栄光」(56)が好評を博し、スターへの階段を上り始める。「熱いトタン屋根の猫」(58)以降、アカデミー賞主演男優賞に繰り返しノミネートされ、7度目となった「ハスラー2」(86)で念願の初受賞。プライベートでは58年に女優のジョアン・ウッドワードと再婚。彼が亡くなる(08)まで、おしどり夫婦として知られた。
アクターズ・スタジオ仕込みの演技力と朗らかな人柄で誰からも好かれたポール・ニューマンは、役者として超一流なだけではなく、他にも様々な顔を持っていた。元々、自動車好きだったニューマンは、愛妻ジョアンとの共演でレース映画「レーサー」(69)を撮るが、これがきっかけとなり、本格的にカーレースにのめり込む。72年に47歳でプロデビューすると、6年後にはル・マン24時間耐久レースに初参加。2位入賞という好成績を上げた。また、57歳の時には食品会社“ニューマンズ・オウン”を設立。こちらの事業も成功して莫大な利益を生むが、そのすべてを慈善事業に寄付するなど、チャリティー活動にも積極的に取り組んだ。
1930年8月25日生まれ。スコットランド・エジンバラ出身。トラック運転手の父を持ち、13歳から牛乳配達などをして働き始める。職を転々としながら肉体労働で鍛えた身体を生かして、ボディビルダーとして活躍。その縁で舞台に立つようになったことから、ロンドンで本格的に演技を学ぶ。54年に映画初出演。その後も下積みが続いたが、「007は殺しの番号(007/ドクター・ノオ)」(62)のジェームズ・ボンド役に大抜擢され、世界的に人気を得る。第7作「007/ダイヤモンドは永遠に」(71)を最後に降板した後は、お客を呼べるスターとして「オリエント急行殺人事件」(74)や、「風とライオン」(75)など多数の作品に出演。87年の「アンタッチャブル」でアカデミー賞助演男優賞を受賞した。06年に引退を宣言。
映画スター、ショーン・コネリーは、「007/ドクター・ノオ」(62)のテレンス・ヤング監督が生んだと言っても過言ではない。当初は起用に反対する声もあったが、その素質を見抜いたヤングが振る舞い方や衣服について丁寧に指導。周囲が“ボンドはヤング”と語るほど、監督の個性が反映されたキャラクターを自分のモノにしていった。ボンド降板後はイメージ脱却を狙い、髭を生やして「風とライオン」(75)、「ロビンとマリアン」(76)などに出演。色気は保ちつつも年齢とともに風格が増し、「薔薇の名前」(86)の修道僧や「レッド・オクトーバーを追え!」(90)の潜水艦艦長など、次第に貫禄ある役が似合うようになった。
1899年5月10日生まれ。アメリカ・ネブラスカ州出身。5歳から姉とともにダンスを習い始め、全米巡業を開始すると姉弟コンビで人気に。姉の結婚引退後、33年に「ダンシング・レディ」で映画初出演。続く「空中レヴュー時代」(33)でジンジャー・ロジャースとの名コンビが誕生。息の合った華麗なダンスを売りに、39年の「カッスル夫妻」まで9本のコンビ作を送り出した。以後も数々のスターと共演し、「ブロードウェイのバークレー夫妻」(49)ではジンジャー・ロジャースとの再共演も実現。年齢を重ねた後は、オードリー・ヘップバーンと共演した「パリの恋人」(57)などで変わらぬダンスを披露する一方、ドラマ作品にも出演。「タワーリング・インフェルノ」(74)ではアカデミー賞助演男優賞候補となった。1987年死去。
1927年の「ジャズ・シンガー」によって音声がついたトーキー映画の歴史が幕を開けるが、それによって誕生したのがミュージカル映画だった。それ以前はダンサーの活躍の場は舞台が中心で、30年代に入って突然スクリーンに登場したアステアも、その時点で既にキャリア20年近い一流ダンサー。軽やかで洗練されたダンスに当時の観客が驚いたのも無理はないが、今なおその魅力は少しも衰えていない。だが、その華麗なパフォーマンスも、舞台裏での厳しい練習があればこそ。ジンジャー・ロジャースはその様子を“彼は完璧主義者だったので、常に言い争いが絶えなかった”と語り、巷では2人の不仲説が囁かれるほどだった。
1954年4月7日、香港生まれ。7歳で全寮制の中国戯劇学院に入学。10年に渡って京劇の基礎を徹底的に学ぶ。厳しい寮生活の中、8歳で映画初出演。やがて実力が認められ、「少林寺木人拳」(76)、「蛇鶴八拳」(77)などクンフー映画に主演するようになる。コメディ要素を取り入れた「スネーキーモンキー 蛇拳」(78)、「ドランクモンキー 酔拳」(78)の大ヒットによりスターの座に就くと、「クレージーモンキー 笑拳」(79)で初監督を務める。以後も続々と主演作が生まれ、「バトルクリーク・ブロー」(80)でアメリカ進出に挑戦。これは失敗に終わったものの、95年の「レッド・ブロンクス」で再進出に成功。クリス・タッカー共演の「ラッシュアワー」(98)がシリーズ化されるなど、世界的スターとなった。
スタントを使わず、身体を張ったアクションで世界を驚嘆させたアジアの大スター。当初は急死したブルース・リーの後継者を期待されながらも、クンフー映画のジャンルに“笑い”の要素を持ち込み、独自の地位を確立。次第にアクロバティックなアクションに発展し、命懸けとも言える難易度の高さは他を圧倒するようになった。人目を引く派手なアクションの裏には、喜劇を始めとしたハリウッドの名作映画に対する愛情も滲む。「プロジェクトA」(83)の時計塔からの転落シーンがハロルド・ロイドの「用心無用」(23)からの引用である他、バスター・キートンやチャップリンの影響が随所に垣間見え、喜劇映画の伝統を継承する一面も持っている。
1935年11月8日、フランス・パリ近郊生まれ。父が早くに亡くなったことから、寄宿学校を転々として17歳で海兵隊に入隊。第一次インドシナ戦争に従軍する。除隊後に訪れたカンヌ国際映画祭でデヴィッド・O・セルズニックにスカウトされるが、この契約はまとまらず、フランス映画「女が事件にからむ時」(56)でデビュー。60年の「太陽がいっぱい」で、富豪の友人を殺害して成り変わろうとする主人公を演じて世界的にブレイク。64年にハリウッドへ渡ったものの、大きな成果もなく帰国すると、フランス映画界に復帰。その人生には、ロミー・シュナイダーとの婚約解消、妻ナタリーとの離婚、ボディガード殺害容疑で取り調べを受けるなど、スキャンダルがついて回ったが、逞しく乗り越えて活躍。
並み居るハリウッドスターを向こうに回して、60~70年代前半に日本でも絶大な人気を誇ったフランスの大スター。その最大の魅力は、二枚目でありながら甘いラブストーリーよりも犯罪映画の方が似合う、危険な香り漂う陰のあるキャラクターだろう。デビュー直後こそ、コメディやロマンスものに出演したが、「太陽がいっぱい」以降は「地下室のメロディー」(63)、「危険がいっぱい」(64)といった犯罪映画で野心的な若者を演じて印象を強めてゆく。30代も半ばを過ぎた頃からは、「サムライ」(67)、「ボルサリーノ」(70)など暗黒街を舞台にした作品で、トレンチコートが似合うダンディズムを身に付けていった。
1904年1月18日~1986年11月29日没。 イギリス・ブリストル生まれ。14歳で学校を放校処分になると、アクロバットの一座に加わり、20年に渡米。俳優志望の彼はそのまま米国に残り、ブロードウェイの舞台などで経験を積む。31年にハリウッドへ進出し、「その夜」(32)で長編映画デビュー。洗練された振る舞いやユーモア溢れる二枚目半のキャラクターで人気を集め、「ヒズ・ガール・フライデー」(40)や「フィラデルフィア物語」(40)などのコメディで活躍した。「愛のアルバム」(41)と「孤独な心」(44)で2度、アカデミー賞主演男優賞候補となるが、53年に引退を宣言。その後、アルフレッド・ヒッチコックの説得によりこれを撤回。「泥棒成金」(55)、「北北西に進路を取れ」(59)などに出演した。
洗練された紳士的な振る舞いとユーモア溢れるキャラクターが持ち味で、ニューシネマ以前のハリウッドを象徴するスター。007の生みの親イアン・フレミングは、彼をモデルにジェームズ・ボンドを創造したと言われる。(実際、映画化の際にボンド役のオファーを受けたものの、断っている。)その個性が広く愛され、30年余りのキャリアの中で様々な監督と組んだが、特にハワード・ホークスのスクリューボール・コメディや、アルフレッド・ヒッチコックのサスペンスに代表作が多い。また、「素晴らしき休日」(38)や「フィラデルフィア物語」(40)など、キャサリン・ヘップバーンとの共演作にも印象に残るものが多い。
1908年5月20日~1997年7月2日没。アメリカ・ペンシルヴェニア州生まれ。32年にプリンストン大学を卒業すると、学生時代に演劇サークルで活動していた経験から、俳優を志す。幾つかの舞台を経験した後、「舗道の殺人」(35)で映画デビュー。38年の「我が家の楽園」を始め、フランク・キャプラ監督と組んでヒューマニズム溢れる名作を送り出す。40年には「フィラデルフィア物語」でアカデミー賞主演男優賞を受賞。第二次世界大戦が勃発すると、ハリウッドスターの先頭を切って従軍し、空軍に所属する。戦後はアンソニー・マンやアルフレッド・ヒッチコックの作品を中心に、西部劇からドラマ、サスペンスまで様々な作品に出演。55年にはマネーメイキングスター第1位になるなど、80年代前半まで活躍した。
誠実な人柄と人懐こい笑顔が多くの人々に愛され、“アメリカの良心”と呼ばれた。亡くなった時には、当時のクリントン大統領が“我々は国の宝を失った”と声明を出したほど。取り立てて二枚目ではないが、スマートな風貌に善良な一市民という雰囲気を備え、初期に出演したフランク・キャプラ監督の諸作では、その持ち味を十分に発揮してアメリカの理想をストレートに謳い上げた。また、リンドバーグやグレン・ミラーなど、何度か実在の人物を演じているが、これも彼のイメージが理想のヒーローに相応しかったからだろう。“誰からも愛される”という個性を売りに、西部劇からサスペンスまで数多くの作品に主演し続けたスターだった。
1904年5月17日~1976年11月15日没。 フランス・パリでナイトクラブの芸人として働く父と歌手の母の下に生まれ、小学校を卒業するとすぐに働き始める。10代後半から舞台に立ち、20代中頃から映画にも出演するようになる。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督と組んだ「地の果てを行く」(35)で人気を得て、「我等の仲間」(36)、「霧の波止場」(38)などに出演。第二次世界大戦が始まると、戦火を避けてハリウッドへ渡るが、終戦後に帰国。ヴェネチア国際映画祭男優賞を受賞した「現金に手を出すな」(54)と「われら巴里ッ子」(54)、「ヘッドライト」(55)といった作品で復活する。その後は、「地下室のメロディー」(63)や「暗黒街のふたり」(73)などでアラン・ドロンと共演し、ベテランらしい存在感を示した。
下町で苦労して育った身の上と無骨な風貌から滲み出す庶民的な雰囲気を武器に、トーキー初期から活躍。ジュリアン・デュヴィヴィエ、ジャン・ルノワールなど、名監督たちと組んでフランス映画界を支え、1930年代は彼にとって黄金期となった。渋い存在感とどっしりした重量感のある演技が印象的だが、当時まだ30代。戦時中の渡米を挟んで、40代半ばを越えた50年代以降は、重鎮として主演を張りつつ、フランソワーズ・アルヌールやアラン・ドロンなど、台頭してきた若手俳優とも共演。「ヘッドライト」(55)のトラック運転手など、若い頃とは異なり、中年の悲哀が滲む円熟味も身に付けて存在感を発揮した。
1962年6月27日、香港生まれ。18歳の時に友人のチャウ・シンチーに誘われ、テレビ局の俳優養成所に入学。若手スターの1人として人気を得る。83年に映画初出演。作品を重ねるに連れて演技力の評価が高まり、ホウ・シャオシェン監督の「非情城市」(89)に出演。ヴェネチア国際映画祭金獅子賞に輝いたこの作品で、聾唖の青年を演じて世界の注目を集める。「欲望の翼」(90)以来、ウォン・カーウァイ作品の常連でもあり、「花様年華」(00)ではカンヌ国際映画祭男優賞を受賞。この他、ハリウッドリメイクされた「インファナル・アフェア」(02)、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞「ラスト、コーション」(07)、三国志を映画化した「レッドクリフ」2部作(08、09)など、香港を代表する演技派として活躍している。
香港を代表する演技派俳優。香港での受賞歴は枚挙に暇がなく、88年の「野獣たちの掟」で香港電影金像奨助演男優賞を受賞して以来、多数の受賞歴を誇る。出演作もアクションからドラマまでジャンルを問わず多岐にわたり、いずれも高いパフォーマンスを発揮。特に、豊かな目の表情については評価が高く、“媚眼放電(目で発電する)”とまで言われている。そのため、ウォン・カーウァイだけでなく、香港のジョン・ウー、台湾のアン・リーなど、巨匠たちの作品に次々と出演。47歳で初めて武術に挑戦した「グランド・マスター」(13)では、4年に渡る厳しい練習を積んで実在の武術家イップ・マンを演じ切るなど、高い期待に応え続けている。
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