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1929年5月4日生まれ。ベルギー出身。幼い頃よりバレエを学びやがてブロードウェイ作品『ジジ』など舞台に進出。ウィリアム・ワイラー監督の目にとまり主役に抜擢された「ローマの休日」で第26回アカデミー賞主演女優賞を受賞し、一躍大スターに。「麗しのサブリナ」(54)「ティファニーで朝食を」(61)「マイ・フェア・レディ」(64)などに出演。可憐でエレガントな彼女は『永遠の妖精』と呼ばれ広く愛されている。俳優メル・ファーラーおよび精神科医アンドレア・マリオ・ドッティとの間に子を設けた。一方、第二次世界大戦時に苦難を味わった経験から人道支援に尽力し、1989年からはユニセフ親善大使を務めた。1993年1月20日、63歳で他界。
グラマラスな女性がもてはやされていた時代において華奢でキュートな風貌のオードリーの登場は革新的だった。「ローマの休日」で見せたローマの街歩き回るアン王女の姿は新しい時代を象徴し、男女問わず世界中で愛された。オードリーはファッション・アイコンとしての人気も根強い。「麗しのサブリナ」以来親交を持ったファッション・デザイナーのユベール・ド・ジバンシィとは多くの作品で組み、ジバンシィのミューズとなる。とりわけ「ティファニーで朝食を」での黒のロングドレス姿は世界的に有名。また、アカデミー賞に加え、優れた演劇人に贈られるトニー賞、テレビ賞のエミー賞、音楽賞のグラミー賞に輝いた数少ない一人でもある。
1930年6月19日生まれ。アメリカ・ウィスコンシン州出身。アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アートで演技を学び、そこで知り合った監督・俳優のジョン・カサヴェテス監督と結婚。ブロードウェイで成功を修めたのち、「The High Cost of Living」(58/未)で映画に進出。ジョン・カサヴェテス監督作品に多く出演し、「こわれゆく女」(74)では第32回ゴールデングローブ賞ドラマ部門主演女優賞を、「オープニング・ナイト」(77)では第28回ベルリン国際映画祭銀熊賞(女優賞)を獲得するなど高い評価を得た。息子のニック・カサヴェテスや娘のゾエ・カサヴェテスも映画監督の道へ進み、彼らの作品にも出演している。
アメリカのインディペンデント映画の父と言われるジョン・カサヴェテス監督の作品を語る上では欠かせないミューズのような存在であり、ジーナもまた彼の作品でとりわけ評価が高い。「グロリア」(80)で演じたマフィアから子供を守ろうとする中年女性をはじめたくましい女性を演じることが多いが、強さ一辺倒ではなく、心の揺らぎや不安定さも丁寧に表し奥深さを出している。年に抗うのではなく円熟みを増してゆき、「きみに読む物語」(04)の認知症を患った老女や「ブロークン・イングリッシュ」(07)の母親役での存在感も光る。84歳の今もなお精力的に数々の作品に出演している。
1928年1月23日生まれ。フランス出身。フランス国立高等演劇学校(コンセルヴァトワール)を経て、1948年には国立劇場コメディ・フランセーズの最年少女優となる。映画には1948年より出始めた。ルイ・マル監督やフランソワ・トリュフォー監督らの作品で鮮烈な印象を残し、ヌーヴェルヴァーグを代表する女優となる。1970年代後半からは「ジャンヌ・モローの思春期」(79)など監督業にも進出。1980年代以降は存在感のある脇役を演じることが多かったものの、2012年の「クロワッサンで朝食を」では撮影当時84歳にして主演を張った。私生活では俳優のジャン・ルイ=リシャールや映画監督ウィリアム・フリードキンらと結婚したが、いずれとも離婚。
新鋭ルイ・マルとの出会いは彼女の大きなターニング・ポイントとなり、「死刑台のエレベーター」(57)で夜の街をさまようヒロインを演じて以降、彼女のキャリアも花開いていく。「雨のしのび逢い」(60)では第13回カンヌ国際映画祭女優賞を獲得。名作で確かな演技力を見せ「ルイ・マルを愛し、トリュフォーから崇拝され、ピエール・カルダンに一目惚れし、オーソン・ウェルズと笑った」と言われるまさに伝説的な大女優であるが、作品の大小に関らず自らのセンスで出演作を選んでいった。映画界への貢献を称えられ、2000年にはベルリン国際映画祭金熊名誉賞が、2003年にはカンヌ国際映画祭で名誉賞であるパルム・ドール・ドヌールが授与された。
1907年5月12日生まれ。アメリカ・コネティカット州出身。舞台を経て、1932年に「愛の嗚咽」で映画デビュー。1930~1940年代のハリウッド黄金期はもとより1994年の「めぐり逢い」まで卓越した演技力を見せ続け、映画史にその名を刻んだ。個性と知性を併せ持つ大女優でありながら飾らない人柄で、人気を博す。自ら出資し主演、大盛況となった舞台の映画化権を持ち、映画会社との交渉末制作に至ったのが「フィラデルフィア物語」(40)。新局面を切り拓いた。1928年に学生時代に知り合った男性と結婚するも6年で破綻。9度に渡り共演したスペンサー・トレイシーとは結婚こそしなかったものの長年パートナー関係にあった。2003年6月29日、96歳で他界。
アカデミー賞には12回もノミネートされ、うち「勝利の朝」(33)、「招かれざる客」(67)、「冬のライオン」(68)、「黄昏」(81)で主演女優賞を獲得。現在まででノミネーションの数はメリル・ストリープの18回に次いで2位、演技部門で4回受賞したのはキャサリンだけ。しかし公の場に出ることを嫌っていた彼女は、プレゼンターとして出席したのを除けば一度も授賞式には出席したことがない。長きに渡り映画界へ貢献し続け、1999年には米国映画協会(AFI)が選出した『最も偉大な女優50選』の第1位に輝いた。また、独自のスタイルを通すことでも知られ、パンツ・ルックを貫くその姿は自立した女性の象徴として多くの女性たちに支持された。
1969年5月14日生まれ。オーストラリア出身。オーストラリア国立演劇学院で演技を学び、卒業後は舞台で活躍。シドニー劇場批評家協会賞創設以来初となる新人女優賞と主演女優賞の同年ダブル受賞を果たした。「Paradise Road」(97/未)でハリウッドに進出。若き日のエリザベス1世を演じた「エリザベス」(98)が大ヒットし、一気にスターダムを駆け上がった。以後も「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズ(01・02・03)や「ライフ・アクアティック」(05)、「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(08)など様々なジャンルの映画で鮮烈な印象を与える一方、舞台にも貢献し続けている。1997年に劇作家アンドリュー・アプトンと結婚し、3人の息子を授かった。
「エリザベス」で初めてノミネートされて以来アカデミー賞の常連で、「アビエイター」(04)で助演女優賞を、「ブルージャスミン」(13)では主演女優賞を獲得。第80回アカデミー賞では前作に続きエリザベス女王を演じた「エリザベス:ゴールデン・エイジ」(07)と歌手のボブ・ディランを演じた「アイム・ノット・ゼア」(07)で主演・助演同時ノミネートされるという快挙を成し遂げた。そのほか「あるスキャンダルの覚え書き」(06)で助演にノミネート。優雅で少し硬質な雰囲気をまとう中、確かな演技力に裏打ちされた深みのある表現は作品に説得力をもたらし、実在の人物から妖精や超能力者、男性、悪役など幅広い役柄をこなしているのも特徴的。
1926年6月1日生まれ。アメリカ・カリフォルニア州出身。不遇の子供時代を経て、モデル業に就く。「嵐の園」(47)でデビュー後しばらくは鳴かず飛ばずの状態だったが、「ノックは無用」(52)や「ナイアガラ」(53)で脚光を浴びるように。「ショウほど素敵な商売はない」(54)をはじめ数々の映画で披露される甘い歌声とセクシーさで世の男性を骨抜きにした。中でも「七年目の浮気」(55)でのスカートがめくれるシーンは有名。整備工や元・野球選手ジョー・ディマジオ、劇作家アーサー・ミラーと結婚するが、いずれとも離婚。誕生パーティで彼女が歌を捧げたケネディ大統領との関係も噂された。1962年8月5日、36歳の若さで突如この世を去る。
とろけるような目に真っ赤な唇、口元のほくろ、グラマラスな体型で腰を振って歩く彼女は、まさに永遠のセックス・シンボル。大量の睡眠薬を服用したことによる中毒死とみられるが死の真相が明らかになっておらず、現在も自殺説、陰謀説など様々な憶測が飛び交っている。セクシーさやスキャンダラスな面に目が行きがちだが、俳優養成所アクターズ・スタジオに通い演技の勉強を重ねており、「お熱いのがお好き」(59)では第17回ゴールデングローブ賞主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞した。「ノーマ・ジーンとマリリン」(96)、「マリリン 7日間の恋」(13)など彼女を扱った作品も多い。
1943年10月22日生まれ。フランス、パリ出身。俳優の両親の下に生まれ、10代の頃から幾つかの映画に端役で出演し、1960年に本格デビュー。1962年、交際中だったロジェ・バディムの「悪徳の栄え」(62)で大注目され、「シェルブールの雨傘」(64)のヒットで世界的な人気を掴んだ。妖艶さをたたえた美貌とともに演技力にも磨きがかかり、その後も多数の作品に出演。「インドシナ」(92)では米アカデミー賞主演女優賞にノミネート。「ヴァンドーム広場」(98)でヴェネツィア国際映画祭女優賞、「8人の女たち」(02)では競演女優たちとともに数々の映画賞に輝いた。08年のカンヌ国際映画祭で功労賞を受賞し、70代に入った現在もなお衰えぬ美貌で活躍を続けている。
清楚な乙女から妖艶な熟女へ。“フランス映画の至宝”と呼ばれた美貌とエレガントさで長年、大輪の花を咲かせ続ける大女優には、スクリーンでまとうファッションが今なお注目される“ファッション・アイコン”という一面もある。『デザインの際にいつもドヌーヴをイメージしている』と公言したイブ・サンローランが衣装提供した「昼顔」(67)では、優雅な着こなしで“女”の性を演じ切った。一方、「シェルブールの雨傘」(64)にオマージュを捧げた「しあわせの雨傘」(10)では、上下赤のジャージ姿を披露するお茶目な一面も。過去のイメージにとらわれず、若い監督の作品にも出演。貫録の中にも余裕と遊び心を感じさせながら、第一線を走り続けているのだ。
1962年11月19日生まれ。アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス出身。2歳でCM出演。子役としてTV等で活躍した後、72年に映画デビュー。マーティン・スコセッシの「タクシードライバー」(76)で13歳の娼婦を鮮烈に演じ、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされる。一時映画界から距離を置き、イェール大学で学業に専念。復帰後は「告発の行方」(88)、「羊たちの沈黙」(90)で2度の米アカデミー賞主演女優賞に輝き、名実共に米国のトップ女優となった。「リトルマン・テイト」(91)で映画初監督。自身が設立した映画製作会社エッグ・ピクチャーズ・プロダクションの第1回作品「ネル」(94)以降はプロデューサーとしても才能を発揮し、活動の幅を広げている。
“子役は大成しない”というジンクスを打ち破ったひとり。14歳のとき「タクシードライバー」でアカデミー賞助演女優賞にノミネート。天才少女として世界的に注目を集めるが、同作で彼女の熱狂的なファンになった男がレーガン大統領暗殺を企てる事件が発生。一時休業する間、イェール大学で知性と感性を磨き、復帰後は2度のオスカーに輝く実力派女優に成長を遂げた。IQ132と言われ、フランス語も堪能。「ネル」では独自で生み出した“ネル語”のセリフを話した。男に媚びない強さを秘めた女性を演じることが多いが、自身はフェミニストとして活動し、同性愛者であることをカミングアウト。2014年4月にはパートナーの女性と同性結婚した。
1955年6月27日生まれ。フランス、パリ出身。14歳の時にスカウトされて女優の道を歩み始め、1970年に映画デビュー。コメディ・フランセーズに所属し、舞台でも活躍する一方で、トリュフォーの「アデルの恋の物語」(75)で主人公を演じ、米アカデミー賞主演女優賞にノミネートされるなど高い評価を得た。1981年の「カルテット」と「ポゼッション」でカンヌ国際映画祭女優賞を、1988年の「カミーユ・クローデル」ではベルリン国際映画祭女優賞を受賞。セザール賞の主演女優賞はこれまでにフランス映画史上最多の5回受賞しており、名実共にフランスを代表する女優。
70年代のデビュー当時からほとんど変わらない容姿。むしろ歳を重ねるにつれて年齢不詳の愛らしさが特徴的で、「可愛いだけじゃダメかしら」(93)ではアラフォーながら24歳のヒロインを違和感なく演じて話題を呼んだ。一方で、肌の露出や美貌を崩すような役にも果敢に挑み、激情的な愛や狂気を演じたら天下一品。ともに壊れゆくヒロインを演じた「アデルの恋の物語」(75)と「カミーユ・クローデル」(88)では米アカデミー賞主演女優賞にノミネートされ、その演技力は国際的に高い評価を得ている。本国のセザール賞では最多5回の主演女優賞に輝き、大女優の貫録も。カンヌ国際映画祭ではコンペディション部門の審査員長を2度務めている。
1932年4月27日生まれ。フランス、パリ出身。両親ともに俳優の家に生まれる。14歳のときにアンリ・カレフに見出され、「密会」(46)で映画デビュー。その後、「火の接吻」(49)に主演。「モンパルナスの灯」(58)ではモディリアーニの妻ジャンヌ・エビュテルヌを演じ、その美しさから世界的な注目を集める。以降、フェリーニ監督作「甘い生活」(60)、「81/2」(63)でマストロヤンニと共演。1966年、日本でも大ヒットした「男と女」で米アカデミー主演女優賞にノミネート、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞で女優賞に輝き、人気を決定的なものにする。70年の結婚を期に一線は退くが、復帰後「SALTO NEL VUOTO(A LEAP INTO THE VOID)」(80)でカンヌ国際映画祭の女優賞を受賞。
世界的ヒットとなり、ゴールデングローブ賞主演女優賞に輝いた「男と女」(66)で“大人のいい女”の代名詞となったエーメ。アンニュイな美貌は勿論のこと、何気ない仕草や着こなしにもフランス女優らしい色香が沸き立っていた。思わず目を奪われるルックスはクリエイターを刺激し、ロミオとジュリエットを翻案した「火の接吻」(49)は彼女のために脚本が書かれ、「ローラ」(60)はジャック・ドゥミが彼女からイメージを膨らませたヒロイン。美しさゆえに健気さや悲恋もまた絵になるのである。実生活では4度の結婚離婚をした恋多き女性。年齢を重ねた後も「プレタポルテ」(94)、「フレンチなしあわせのみつけ方」(04)などで円熟した美貌を見せている。
1901年10月27日生まれ。ドイツ・ベルリン出身。22年の演劇学校入学直後から舞台に立ち始め、23年に映画デビュー。ジョセフ・フォン・スタンバーグに見出され、「嘆きの天使」(30)のローラ役に抜擢。退廃的な魅力と抜群な脚線美、彼女が歌う“フォーリング・イン・ラヴ・アゲイン”もヒットして世界的に有名になる。その後、アメリカに渡りパラマウントと正式契約。スタンバーグの下で実力を開花させ、「間諜X27」(31)、「上海特急」(32)など数々の作品に出演する一方、ナチス映画への出演を拒み、39年にアメリカ市民権を取得。50年以降は歌手としての活動が多くなり、「ジャスト・ア・ジゴロ」(78)が最後の映画出演となった。92年、パリで老衰のため逝去。
ベルリン生まれでエキゾチックな妖艶さと脚線美を誇り、ドイツの退廃美を体現する女優。だがディートリッヒはナチスに反発し、ヒトラーからのドイツ映画への復帰要請を完全拒否。アメリカ市民権を取得して、第二次大戦勃発後は前線慰問や反ナチ運動に積極的に参加した硬派な女性でもある。スクリーンで観客を魅了したセクシーな歌声で、53年からは歌手として世界各地でリサイタルを行うなど新境地を開拓。日本にも大阪万博の70年と74年に来日している。クールなイメージが強いが、数々の作品でコンビを組んだスタンバーグ監督との不倫愛のほか、「狂恋」(47)で共演したジャン・ギャバンと熱愛関係にあったことが後に明らかになった。
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