安定した教職を捨て、陶芸に生涯を捧げる決意をした板谷嘉七。故郷・下館から見える筑波山にちなんで自らを”波山“と号した彼は、妻・まると子供らと共に東京・田端に移り住むと、東京高等工業学校の嘱託教師をしながら、友人・平野が設計した“三方焚口倒焔式丸窯”作りに励んだ。ところが、漸く完成した窯の初の火入れで波山は薪の量を読み違え、陶芸家・堀田に作品を酷評されたばかりか、二度目の窯焚きでも予期せぬ地震に見舞われ、作品はほぼ全滅。生活も困窮を極めてしまう。しかし、轆轤師・現田市松との出会いによって、彼は遂に“葆光釉”と言う上薬を究めることが叶い、やがて彼の作品に魅せられた若き実業家から後援を申し込まれる。こうして、世に認められることになった波山だが、ある日、彼のもとにひとりの和尚が花器を携えて訪ねて来た。果たして、それはかつて生活の為にまるがこっそり持ち出し和尚に買って貰った二度目の窯の失敗作のひとつであった。作品作りに妥協を許さない波山の名誉をおもんばかって、花器を返却してくれた和尚。しかし、波山はそれを割ることなく、工房の隅に飾って置くのであった。