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  • 日本映画のススメ Vol4 「悪の教典」公開記念特集 「悪の教典」作品評 過激さの手を緩めない、言い訳なしのエンタテインメント 文=森直人
  • 特集1 「悪の教典」作品評
  • 特集2 「悪の教典」を観る前に/観た後に
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原作・貴志祐介×監督・三池崇史×主演・伊藤英明という顔合わせによる戦慄のエンタテインメント「悪の教典」が公開中。今回の「日本映画のススメ」は、この話題作のレビューと、「悪の教典」を観る前にor観た後にチェックしたい、同じように観る者に戦慄を感じさせてくれる日本映画をセレクトしてみました。

Magnificentな驚きの快演を見せてくれる伊藤英明

「悪の教典」場面写真

© 2012「悪の教典」製作委員会

主演の伊藤英明が最高だ。劇中の台詞を借りれば、「Good! さらに良ければGreat! それより上ならExcellent! 心底感動するくらい素晴らしい場合にはMagnificent!」。

本作の高校教師・蓮実聖司役で、伊藤はまさにMagnificentな驚きの快演を見せてくれる。普段はさわやかな笑顔とフレンドリーな人柄、頼もしい教育態度で、生徒たちに“ハスミン”の愛称で慕われている学校一人気のイケメン先生。しかし実は、彼は自らの生存本能にのみ従って動いており、ピンチに陥ったり立場が危うくなれば、殺人鬼にまで簡単に振り切れてしまう!

彼最大の当たり役である「海猿」シリーズ(04〜12)の熱血ヒーロー、海上保安官・仙崎大輔のセルフイメージを引っ繰り返したようなダークヒーロー。時と状況に合わせ、真っ白の外面と真っ黒の本性という両極を自由自在に行き来する彼には、高性能のコンピュータを内蔵した獣のような凄まじい色気が漲っている。

しかしなぜ我々は、このサイコキラーに色気を感じてしまうのか? それはきっと、彼が究極の自由意思の体現者だからだろう。

「悪の教典」場面写真

© 2012「悪の教典」製作委員会

蓮実聖司という人物の最たる特徴は、他者への共感能力がまったく欠如していることである。それゆえ極めて合理的に、一般社会ウケするキャラを演技で偽装することもできるし、ひとたび逆のスイッチが入れば、一切のモラルから解き放たれて、未成年の生徒たちに猟銃を向けて平気でブチ殺すこともできる。

もちろん彼の極端な行動は、世間から「悪」と定義されるわけだが、しかし当の本人はそもそも善悪というイデオロギーを意に介さない。ひたすらおのれの欲望を貫き、弱肉強食の世界をサバイバルするためなら手段を問わない蓮実聖司の前では、ヒューマニズムが完全に失効する。そんな“現代の超人”を、よりによって学校教育の現場に放り込むなんてのはブラックジョーク以外の何物でもなかろう。本作の構造は、「ノーカントリー」(07)のアントン・シガーや「ダークナイト」(08)のジョーカーを、好青年の仮面をつけて学園映画の中に解き放ったようなものだ。

「悪の教典」場面写真

© 2012「悪の教典」製作委員会

監督の三池崇史は、今回珍しくも自ら脚本まで手掛け(めったに自分でシナリオを書かない三池が単独で脚本にクレジットされているのは本作が初めてではないか?)、得意の暴力表現をソリッドに爆発させまくっている。基本的には貴志祐介(冒頭シーンに教師役で出演も)の原作小説に忠実だが、構成は枝葉や様々なエピソードを削ぎ落とし、主人公の特異なキャラクターの魅力と暴走に集中する形でシンプルなハードコア・アクションに仕立てた。

原作の要素が映画的に良く活きた例としては、蓮実聖司が口笛で吹くベルトルト・ブレヒトの戯曲「三文オペラ」のヤバい劇中歌「モリタート(殺人物語大道歌)」の使い方が挙げられよう。その陽気な曲調と残酷な内容のギャップから来る異化効果は、映像と音楽で具体的に表現されると、おぞましい戦慄の迫力として脳髄とカラダにびんびん響いてくるのだ。

閉塞した現実の”先”を行こうという果敢な意思

それにしても三池崇史は、蓮実聖司がよっぽど好きなのだろう。彼のフィルモグラフィーをたどると、“ハスミン”は「殺し屋1」(01)の変態ヤクザ・垣原(浅野忠信)や「十三人の刺客」(10)の暴君・斉韶(稲垣吾郎)らの系譜にある。エロスとヴァイオレンスの衝動で常識の枠組みをあっけらかんと飛び越える人間に、三池はエンタテインメントの突破力を託す。そして蓮実聖司は、冴えた男のセックスアピールという側面を兼ね備えた三池的ダークヒーローの“完成形”。彼を堂々センターに立たせることで、ついに自らの世界観を全面発揮できたというわけだ。

「悪の教典」場面写真

© 2012「悪の教典」製作委員会

思わず主人公の記述ばかりに寄ってしまったが、役者陣は脇の脇までみんな素晴らしい! 本作は皆殺しの学園映画という点で「バトル・ロワイアル」(00)と最も比較しやすいが、スクールカースト的な生徒間の力関係やグループ分けを説明過多にならずに反映し、全員まとめて阿鼻叫喚の地獄で狂乱させつつ、各々の個性がちゃんと立っている群像模様は非常に強度がある。その中には、染谷将太二階堂ふみという「ヒミズ」(12)の鮮烈な熱演で高い評価を受けた二人もおり、また、陰湿な物理教師・釣井正信役は「冷たい熱帯魚」(11)で気弱な主人公に扮した吹越満が怪演しているなど、園子温組からの投入が目立つ。確かに劇画的なハイ・テンション、役者の潜在的な資質を覚醒させる演出、挑発的な作風といった具合に、三池崇史園子温の共振性は一考に値するだろう。

「悪の教典」場面写真

© 2012「悪の教典」製作委員会

とりわけ三池と園の重要な接点は、我々が生きるこのハードな現実の中で、映画というフィクションはいかに成り立つか? という批評的視点が常に駆動していることである。園は震災と原発問題で揺れる日本の過酷な現状に逸早く反応し、「ヒミズ」から「希望の国」(12)へと疾走を進めた。一方、三池が「悪の教典」で仕掛けたのは、正義やモラルの基準が迷走している現代社会に眠る欲望を、先回りしてグロテスクに露出させることだと思う。本作の後半で悪夢のように展開される殺戮ゲームはものすごく陰惨だ。しかしそのラジカルな徹底性は、「誰でもいいから殺したかった」との内面吐露と共に無差別殺人事件が勃発する、閉塞した現実の“先”を行こうという果敢な意思ゆえだろう。三池崇史は過激さの手を緩めないことで、混迷する時代のゆくえの試金石を、言い訳なしのエンタテインメントで引き受けたのである。