U-NEXTで見たのだが、本日で配信終了。
15年ぶり5回目の鑑賞。
丸の内ピカデリーの地下、丸の内松竹で見たのは1974年。
過ぎてみると人生など一瞬のようだ。
感傷的になってしまうが。
トリュフォーやジャクリーン・ビセット、出演者は本人としては出て来ない。
別人である。(別名)
そんな中で、電話で完成した曲を流すのはジョルジュ・ドルリュー本人となっていた。
製作の慌ただしさが、そのまま慌ただしいモンタージュになっていて、落ちつかない。
60年代、トリュフォー映画はもっと精緻なモンタージュだったと思ったが。
トリュフォー演じる監督は、現場の総ての相談役になっており、これでは落ち着いて演出構想も練れないであろう。
助監督や他のスタッフにその仕事はしてもらうべきである。
これがフランス映画界なのかな。
トリュフォーがレオに。
「映画は私生活と違って、よどみなく進む。
言ってみれば夜の急行だ。
君や私のような者には、幸福は仕事にしかない。」
映画の序盤で。
「映画製作は駅馬車の旅に似ている。
期待が消え、結局は目的地に着くことだけになる。」
映画の中盤で。
「希望にあふれ撮影を始めるが、難問が続出。
やがて何とか完成をとだけ願う。
これではいかんと思う。
もっとやれる、頑張れ。
まだ何とかできる。
全力で作品を生き返らせようとする。
《パメラ》も何とかなりそうだ。
皆が役に入り込みスタッフの腰も据わる映画こそ王様。」
映画の最後に。
「スタジオの時代も終わった。
今後の映画にはスターも脚本もない。
《パメラ》のような映画は、もうできない。」
「柔らかい肌」は、もうできないというのだろうか。
*昔、60年代の雑誌「映画の友」に、トリュフォーの「華氏451」の撮影日誌が出ていた。
主演のオスカー・ウェルナーが他の俳優の演技指導をし始めたりして、頭に来たと書いてあった。
慣れないロンドン撮影で、《しっちゃかめっちゃか》だったとか。
*ヒッチコックの「鳥」
ラストは、物足りなくも感じる。
実は脚本・絵コンテでは、あの後、ロッド・テイラーら4人の車はボデガ湾の町へ行く。
町は、すっかり壊滅している。
そして町を出ようとした彼らの車は・・・。
なぜ映画化しなかったのか?
製作費が尽きたから。
*デ・パルマの「愛のメモリー」
ポール・シュレーダーの脚本の半分しか映画化しなかった。
あの後、二転三転して、作ると4時間ぐらいになったらしい。
ポール・シュレーダーは、その後、二度とデパルマとは組まなかったそうな。
どこに書いてあったかな?
ジャクリーン・ビセットが演じる女優ジュリーは、精神不安定で親子ほどの年の差の担当精神医と結婚している。
これはオードリー・ヘプバーンやモンローを思い出させた。
ただしオードリーの二人目の夫は精神科医だが、オードリーは患者というわけではなかったようだ。
現場のアシスタントは、若きナタリー・バイ。
「スタントマンと駆け落ちするとはね。
私には男より映画よ。」と言う。
ストーリーらしいストーリーがない本作の中で、終盤、あやまちを犯してしまう心優しきビセットが、いい感じ。
「まず映画の完成よ。」とレオに説く。
(ジャン・ピエール・レオの男優の方は、まるで子供だ。)
ビセットは、3階相当の梯子をスタントマンなしで昇る。
(カットなしで、フルに撮ってる。)
上には、トリュフォーが待っているのだが、危険な撮影だ。
またビセットは、フランス語が達者だった。
トリュフォーの許に映画本の小包が届く。
中身は、ブニュエル、カール・テオドール・ドライヤー、ルビッチ、ベルイマン、ゴダール、ヒッチコック、ロッセリーニ、ハワード・ホークス、ブレッソン、「地獄に堕ちた勇者ども」?が表紙の本。
新聞を読み上げるトリュフォー。
「《ゴッドファーザー》は大当りで、あとはさっぱりだ。」
テレビの「映画クイズ」。
ジャンヌ・モローとオーソン・ウェルズの共演。
「フォルスタッフ」、今なら言える。
「市民ケーン」は1941年の公開。
トリュフォーは9才だった。
フランソワ・トリュフォー 1932.2.6 ~1984.10.21 52才没