那覇と首里の中間に位置する沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は、別名“ひめゆりの学園”と呼ばれていた。昭和19年7月、本来ならば夏休みを実家で過ごすはずの生徒たちは激しくなる戦争に備え、皇国臣民の責務を果たすために再び学校へ招集された。まだ若い彼女たちを疎開させようという案も女教師・宮城千代子や仲宗根政文らから出るが、そんな意見が通る訳はない。傷ついた戦士たちを看護する従軍命令をうけた生徒たちは、ひめゆり学徒隊として戦地へ赴くことになった。だが、アメリカ軍との戦いは熾烈を極めるばかりで、負傷兵の数も次第に増え、彼女たちの疲れも並大抵のものではなくなっていく。戦地での簡素な卒業式を終えたひめゆり学徒隊は、4月1日、アメリカ軍の沖縄上陸に伴い、野戦病院を移動することになる。だが、生徒たちの中にもケガ人や犠牲者が出始めており、重病人は移動の足手まといになるとして、留置を余儀なくされた。足を負傷した渡久地泰子もまた、そんな一人であった。彼女は自らその場に残ることを決意し、動けぬ体のまま、いつ来るやも知れぬ死の恐怖に脅えていた。6月18日、ひめゆり学徒隊に解散命令が下った。予想以上の数のアメリカ軍兵の上陸に、軍は彼らの命の保証を放棄したのである。グループに別れて逃げ惑う生徒と先生たち。ある者は敵の毒ガスにやられ、ある者は自決し、その尊い命を失った。そして、8月15日、アメリカ軍によって命を救われた仲宗根は、やはり生き残った生徒の何人かと再会する。そこで、泰子が生きて病院に運ばれていたことを聞き、早速その病院へ駆けつけるが、泰子はひどい衰弱のために息を引きとってしまった。