学芸大学をこの春卒えたばかりの広江節子は、モデル・スクールといわれる日吉坂小学校の女教員になった。その夏、妹の良子が八丈島へ嫁ぐことになったので、節子は何年ぶりかで故郷の青カ島の土を踏むが、ここは昔ながらの、酒とケンカと神頼みの村だった。節子は村長の娘だった。小学校を訪ねた彼女は、東京から赴任した二人の女教員が、みじめな島の生活に耐え切れずに帰ってしまったので、手不足で弱っていることを知った。彼女は両親の反対を押しきって、青カ島で教鞭をとることになった。まず、子供たちに島の様子を作文に書かせて、日吉坂小学校の森先生に送った。医者のいないこの村では、病人が出来ると巫女を招いて祈祷をしてもらうのだが、節子は教え子の東助が高熱を出したとき、そんな迷信を打破するために闘った。秋から冬にかけては海が荒れ、定期船は例年より一カ月も早くとまってしまった。シケで島に近づけないのだ。そのため食糧や日用品がたちまち欠乏し、たのしみにしていた「牛まつり学芸会」も中止され、お正月にも餅がなく、芋ばかりを食べて暮らした。節子の年賀電報で、森先生や日吉坂小学校の子供たちは、青カ島の深刻な有様を知った。何とかして島のともだちを救おうと街頭募金運動がはじめられ、救援物資は続々と集められた。しかし輸送のあてがない。だが、子供たちの熱意は不可能だと思ったことを実現させた。PTAの尽力もあって新聞社の航空機が物資を運んでくれることになったのである。荒天を衝いて青カ島の上空に飛来した航空機から、真心のこもった物資の包みがいくつも投下された。節子たちは涙をうかべて、手をふるのだった。