悩みや迷いの多かった時期に黒澤映画に出会えたことは、私にとって幸運だったと思います。確かに私は黒澤映画に救われた、という思いを持っています。
この映画も、皆さんが書いていらっしゃるとおり、たいへん優れた映画だと思っています。
私が黒澤映画に強く惹かれたのは、映画自体の面白さもさることながら、人間関係の対立の中にアンビバレントな感情が描かれていたからだと思います。
ambivalent。相反する感情が両立していること。「天国と地獄」には、主人公、権藤金吾(演:三船敏郎)と、その敵役、竹内銀次郎(演:山崎努)の、どちらにも黒澤監督が感情移入している様子が感じられました。
私が思ったのは、おそらく黒澤監督の中には、竹内銀次郎的な感情が芽生える時が、ままあって、それを懸命に否定しようとする心の葛藤があるのではないか、ということでした。
こうした人間関係の対立のなかに、相反する感情が両立して描かれていることは、私が黒澤映画に感じた一つの大きな特徴でした。
こうした人間関係の対立の描き方は、「酔ひどれ天使」(1948)の真田医師(演:志村喬)とヤクザの松永(演:三船敏郎)との関係でも描かれていたし、「野良犬」(1949)の村上刑事(演:三船敏郎)と遊佐(演:木村功)との関係、あるいは遊佐の愛人の並木ハルミ(演:淡路恵子)との関係でも描かれていた。そういう対立する人間関係の描き方に、私は黒澤監督の心の葛藤を感じたのでした。
そして黒澤監督自身の心の葛藤を見せてくれているところに、私は激しく共感したんだと思います
山崎努は「黒澤さん、犯人にすごく同情的だったんです」と語っている。(黒澤明と「天国と地獄」ドキュメント・憤怒のサスペンス 都築政昭 著 朝日ソノラマ P258)
また、こんな証言もある。
(シューベルトの「鱒」が流れているシーンについて)「黒澤さんは『鱒』ではなくブラザーズ・フォアの『グリーン・フィールズ』を使うつもりだったらしい。ところがあててみると、犯人に感情移入し過ぎて取り止めたという。」((黒澤明 夢のあしあと 黒澤明研究会編 共同通信社 P255 下段「グリーン・フィールズ」)
完成した映画では、たしかに犯人を否定しているのだけれど、バッサリと切り捨てているということでは無いように感じます。黒澤監督の中では、きっと心の葛藤があったんだと・・・
そして映像表現のテクニックの面からも、撮影の裏話などを読むと、驚くことが沢山あります。大島渚氏が「酔ひどれ天使」について書いた、有名なメモ風の感想の中で「常に何かを狙っていること」というのがありましたが、この「天国と地獄」でも、映画というものは、こんなに狙って撮るものなのか、と驚かされます。
たとえば、あの丘の上に建っている権藤邸の窓から見える横浜の夜景は、実景ではなく豆電球で作ったミニチュアを使ったのだそうですが、これはかなりの驚きでした。実景ではフィルムに肉眼で見えるようには写らない、ということのようですが。
そしてこの映画、全体的に音の量感がすごいです。横浜の酒場で、ジュークボックスから流れるロックンロール調の曲にのって、大勢の客がツイストを踊るシーンも好きなシーンですね。あの熱狂。ジュークボックスに特有の低音のきいた独特の音。
映画のラストに近いところで、ラジオから「0時15分になります。ミッドナイトミュージック」のアナウンスの後に、エルヴィス・プレスリーの「It’s Now or Never」(オ・ソレ・ミオ)のインストルメンタル版のような曲が流れるシーンがあります。この曲も心に滲みました。
そして、話は飛ぶのですが、昔のテレビ番組「ウルトラQ」の第20話「海底原人ラゴン」(監督:野長瀬三摩地)を見ていた時のこと。ラゴンがラジオの音楽に聞き入っているシーン。音楽が終わったあとに、ラジオからDJの女性の声が聞こえてきます。
なんと「ミッドナイトミュージック、次の曲は・・・」と言っているではないですか。
「ミッドナイトミュージック」は実在の番組だったのでしょうか。昭和40年ころの新聞のラジオ欄を調べれば、すぐにわかることなのでしょうが、私の住んでいる町の貧弱な公共図書館では、そんな昔の新聞を閲覧することはできないのでした。蔵書にないから・・・田舎は駄目ですね。