三船敏郎

|Toshiro Mifune| (出演/製作/監督)

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本名
出身地 中国・山東省青島
生年月日 1920/04/01
没年月日 1997/12/24

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中国・山東省青島の生まれ。4歳の時に遼寧省大連に移る。父・徳造は秋田県の出身で、青島、大連で写真館を営み、貿易業にも手を出していた。1933年、大連中学に入学。中学時代はかなりマセていたが、父が病気で倒れたので稼業の写真屋を手伝う。38年に中学を卒業。40年に満州の陸軍航空隊に入隊し、写真の経験があることから写真部に配属されて航空写真を扱った。熊本県上益城群城南町隈庄の小さな飛行場で終戦を迎える。すでに両親とも死亡、国内に親戚もなく、とにかく写真技術を活かそうと上京するが、東京は焼け野原で写真館などあるはずもなく、軍隊時代の知人の家に居候して職探しをするうち、軍隊時代の仲間が東宝撮影所の撮影部にいることを知って相談する。東宝に履歴書を出したところ、1カ月後の46年6月、呼び出しがあり、飛んで行ってみると、これが東宝第1期ニューフェイス募集の面接試験だった。何かの間違いで履歴書がそちらに紛れ込んでしまったのである。俳優になる気などなかった彼は、「笑ってみろ」と言われ「そんなに簡単に笑えるものではありません」と答えたり、およそ試験官をナメたようなふてぶてしい態度で異彩を放ち、ほとんどの試験官から顰蹙を買ったが、山本嘉次郎監督だけはその態度を気に入り、三船は補欠で採用される。採用者は応募4,000人のうち男16人、女32人だった。この46年、東宝では歴史的な“東宝争議”が起き、主演級スターをごっそり失って、新人起用に踏み切らざるを得ない事情があった。ニューフェイス合格者のうち、岸旗江、若山セツ子、久我美子、伊豆肇らを第一線に送り出すことにし、その末席に三船も加わる。47年8月封切りの「銀嶺の果て」に出演。監督は山本嘉次郎門下の谷口千吉で、彼にとっても監督第1作目だった。三船は志村喬、小杉勇のベテランと並んで主役の三悪人のひとりに抜擢されて好演。その本物の不良のような雰囲気を画面にまき散らした。次いで山本監督の「新馬鹿時代」を挟んで、翌48年に黒澤明監督「酔いどれ天使」の主役に抜擢される。闇市にたむろする松永という若いやくざがその役で、胸を病んで自棄的になり、刑務所帰りの兄貴分と揉めて自滅するという絶望的な役どころ。三船はそれまでの不良っぽさと長い軍隊生活の憤懣のすべてを叩き込んだかのような、怒りに満ちた荒々しい動きを見せて、当時の青年の典型を作り上げた。それまで映画俳優が演じる不良やチンピラやくざはわざとらしいものばかりであったが、三船の演技はまるで本物の復員崩れのアプレ(戦後派の不良)がスクリーンを闊歩しているかのような実感にあふれ、彼が街を歩くと本物のチンピラたちが挨拶したとまで言われた。以後、三船は黒澤映画に欠くことのできぬ俳優として、「生きる」52を除く「赤ひげ」65までの全作品に出演することになる。49年の黒澤監督「野良犬」は刑事もののハシリで、犯人を執拗に追い詰める若い刑事を熱演。50年の「羅生門」では王朝時代の盗賊・多襄丸を演じて野性的な男の魅力を存分に見せ、この作品がヴェネチア国際映画祭で日本映画初のグランプリを受賞したことで、三船の名も国際的になる。この頃の三船は、巧い演技というよりも、人間の内側に抑圧されている動物的な衝動を思いきり解放してみせているような演技であった。「羅生門」の時、黒澤は動物映画を試写して、豹の動きを三船の役のモデルとして指示したというが、事実、藪の中を駈ける三船の姿は豹のように精悍で獰猛で機敏であり、かつての日本の映画俳優には見られなかった新しい種類の美しさを持っていた。黒澤の「静かなる決闘」49、「醜聞(スキャンダル)」50、山本嘉次郎監督「悲歌(エレジー)」51などでインテリ青年の役もやってはいたが、あまり似合っているとは言えず、49年の谷口千吉監督「ジャコ萬と鉄」での、月形龍之介と格闘する兵隊帰りの漁師のような乱暴者などを演じると、水を得た魚のように生き生きとしていた。一方、徐々にではあるが深みのある難解な役も演じるようになり、黒澤の「白痴」51では、ドストエフスキーの原作による複雑で深刻なロゴージン=赤間伝吉役を、内側からあふれる欲望のかたまりのような人物として力強く演じた。52年の「七人の侍」では無知で暴れん坊の侍志願の百姓の孤児・菊千代であったが、それまでの熱演一方に、おどけた味が加わる。55年の「生きものの記録」は原水爆実験を恐怖して、一家を引き連れブラジルに移民しようとする町工場の親父の役。初めての老け役であったが、動物的な生命力をもって直感的に原水爆実験を恐怖する老人という存在が、単なる観念としてではなく、一種の生々しさで観客を圧倒した。54年から56年にかけては稲垣浩監督の「宮本武蔵」三部作に主演。第1部は米国アカデミー賞の外国語映画賞を受賞し、時代劇スターとしての地位も確立する。稲垣監督とは58年の「無法松の一生」でも組み、ヴェネチア映画祭のグランプリを獲得している。57年の黒澤監督「蜘蛛巣城」はシェイクスピアの『マクベス』の翻案で、三船の演じた武将は能の演技のスタイルを積極的に取り入れた様式化されたものになっている。得意の奔放さを封じられ、厳格に抑制された演技を要求されたわけではあるが、三船はこの難役を見事にこなした。もちろん人気スターとして通俗娯楽映画にも多数出演しているが、この頃の出色の作品としては、岡本喜八監督「暗黒街の対決」60が挙げられる。アメリカのハードボイルド映画のパロディのような作品でシリーズ化もされた。また、「太平洋の嵐」60、「太平洋の翼」63、さらに東宝の夏の名物“8・15”シリーズの「日本のいちばん長い日」67、「連合艦隊司令長官・山本五十六」68、「軍閥」69などの戦記ものもある。黒澤作品ではその後、「隠し砦の三悪人」58で御家再興のため軍資金と姫君を守って敵中突破をはかる戦国の武将・真壁六郎太を、豪放で直線的な演技のうちにユーモラスな一面を見せ、続く「悪い奴ほどよく眠る」60では一転して、公団汚職の責任を負わされて自殺した父の復讐をはかる悲劇の男に挑む。そして61年、すでに大スターであった三船に、もうひとつ極めつけの役が加わる。「用心棒」の浪人・桑畑三十郎役。超人的な暴れん坊の侍というのは時代劇で繰り返し描かれてきたヒーローだが、この三十郎も彼らに匹敵するスケールの大きな人気者と言えるだろう。この成功で引き続き「椿三十郎」62が作られるが、これらの作品における三船の動きの素早さと、ひと呼吸で動き続ける持続力に、黒澤は感嘆したという。この三十郎のキャラクターは以後の時代劇にも大きく影響を及ぼすことになる。その後、黒澤作品にはエド・マクベインの『キングの身代金』を翻案した「天国と地獄」63で、運転手の子供を自分の子供と間違えて誘拐され、破産の危機にありながら巨額の身代金要求に応じる製靴会社の社長、続く65年の「赤ひげ」では江戸の医師・新出去定に扮し、武器を持たず人格的な圧力で人々を心服させていく。しかし、結果的にこの「赤ひげ」が三船=黒澤コンビの最終作となった。この間の62年7月、三船プロダクションを設立して代表取締役に。63年には第1作「五十万人の遺産」を自らの監督・主演で製作。次いで65年に、岡本喜八監督の「侍」と「血と砂」を製作・主演する。66年には東京都世田谷区成城に3つのスタジオと時代劇のオープンセットを持つ撮影所を建設。劇場映画のほか、67年の日本テレビ『桃太郎侍』を第1作にテレビ映画の製作も開始する。同年、小林正樹監督「上意討ち・拝領妻始末」がキネマ旬報ベスト・ワン、68年には石原プロと提携した熊井啓監督「黒部の太陽」を大ヒットさせる。その一方、61年に「用心棒」、65年に「赤ひげ」で二度のヴェネチア映画祭男優賞を受賞。海外からの出演申し込みも殺到するようになって、まず61年にメキシコ映画「価値ある男」に主演、67年にはジョン・フランケンハイマー監督「グラン・プリ」に助演する。68年にはジョン・ブアマン監督「太平洋の地獄」でリー・マーヴィンとW主演。71年には人気絶頂のアラン・ドロン、チャールズ・ブロンソンとの共演でテレンス・ヤング監督「レッド・サン」に出演し、80年のスティーヴン・スピルバーグ監督のナンセンスコメディ「1941」では日本の潜水艦艦長役を大真面目に演じるなどして、“世界のミフネ”の名をほしいままにする。日本映画では、山田洋次監督「男はつらいよ・知床慕情」87で初老の男の恋を重厚に演じ、熊井監督「千利休・本覺坊遺文」89では千利休を重厚で剛直、しかも繊細な大人物として堂々と演じ、晩年の代表作のひとつとする。熊井作品では95年の「深い河」にも出演。戦争の苦悩を背負って生きる老人の役で、鬼気迫るばかりの深刻な演技の味わいを見せたが、97年12月24日、全機能不全のため死去。77歳だった。キネマ旬報賞男優賞を「用心棒」ほかの61年と、「黒部の太陽」ほかの68年に二度獲得。ブルーリボン賞の主演男優賞を三度、毎日映画コンクールの男優主演賞と助演賞を一度ずつ、「上意討ち」「グラン・プリ」など内外の活躍で67年の芸術選奨文部大臣賞をそれぞれ受賞している。86年紫綬褒章、93年勲三等瑞宝章。50年1月5日、東宝第1期ニューフェイスの同期だった吉峰幸子と結婚。二男があり、長男の史郎は現・三船プロ代表取締役社長で俳優としても活動している。タレントの三船美佳は内縁関係にあった女優の喜多川美佳との間に生まれた娘。

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1992年7月上旬号

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1979年6月下旬号

追悼 :森岩雄

1977年11月上旬号

「日本の首領・野望篇」ルポ:東映京撮に現われた三船敏郎

1976年6月下旬号

〈座談会〉 「ミッドウェイ」は日米間の戦争スペクタルをいかなる視点で描いたか?:阿川弘之×三船敏郎×吉田俊雄×黒井和雄×白井佳夫

1975年6月下旬号

グラビア:三船敏郎 「ペーパー・タイガー」

1974年12月上旬号

グラビア:東和75年ラインナップ ロージーの「人形の家」/さらばブルース・リー「死亡遊戯」/テレンス・ヤング「クランスマン」/ドヌーブの「ジグ・ジク」/「三船敏郎の「ペーパータイガー」/S・クリステル「ジュリア夫人」他

1970年1月下旬正月特別号

トップに聞く:三船敏郎 三船プロ社長

1969年3月上旬号

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1969年2月下旬号

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新しい映画の砦・三船スタジオ:三船敏郎氏に贈る手紙

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1966年11月下旬号

「グラン・プリ」を終えて:

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1965年9月下旬号

モスクワの七日間:

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マンガ・ルポルタージュ:しょうしょうごめん! 三船敏郎

1965年5月下旬号

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1964年11月下旬号

巻頭グラビア:三船敏郎と石原裕次郎

対談 我々の映画を語る:三船敏郎×石原裕次郎 2本の共同製作を発表した2人のスターの夢と抱負をめぐって

1964年10月上旬秋の特別号

復刊15周年記念特集・1 34人の批評家が選出した戦後スター・ベスト5:特別グラフィック 〈選ばれた10人〉 左幸子/岡田茉莉子/岸田今日子/新珠三千代/若尾文子/三船敏郎/中村錦之助/仲代達矢/小林桂樹/勝新太郎

1963年5月上旬号

特別グラビア:「五十万人の遺産」の三船組

1963年4月号増刊 黒沢明<その作品と顔>

黒沢監督とわたし:三十郎という男

1962年3月上旬号

1961年度キネマ旬報ベスト・テン/詳報:キネマ旬報賞を受賞して

1962年2月上旬ベスト・テン決算総特集号

1961年度ベスト・テン特別グラフィック 旬報賞に輝く人々:男優賞 三船敏郎

1961年12月上旬号

リレー・スピーチ:

1961年11月下旬号

三船敏郎と「価値ある男」:

1961年9月下旬号

恭子対談 おたずねいたします:18 [答える人] 三船敏郎

1961年5月下旬号

クロース・アップ:三船敏郎

1960年7月上旬夏の特別号

特別グラビア:三船敏郎

1959年新年特別号

特別グラビア [映画人と家庭]:三船敏郎

1958年11月上旬号

映画技術ページ:「老人と海」の撮影技法

1956年8月上旬号

三船敏郎:

1955年増刊 日本映画大鑑 映画人篇

グラフィック:三船敏郎

1953年5月上旬号

グラフィック:日本映画このコンビ(黒沢明・三船敏郎)

1953年2月上旬ベスト・テン決定発表特別号

映画人クロースアップ:三船敏郎

フィルモグラフィー