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鑑賞日 2022/12/10  登録日 2022/12/11  評点 - 

鑑賞方法 映画館/東京都/TOHOシネマズ上野 
3D/字幕 -/-
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新海誠の戸締まり

前向きな高い評価がほとんどなので、ひつとぐらいネガティブなレビューがあってもいいだろう。この映画を大傑作だと認めた上で、本作の欠け落ちた部分などについて言及したいと思う。素晴らしく美しい映画であることに相違はない。

(以下は読まなくていい。)

宮崎駿である。強引に結びつけると、この映画は宮崎駿監督作品をある意味で受け継ごうとしているのではないか。本人も一部認めていることに加えて、物語の出だしを宮崎県にしたことはともかく、鍵を閉めるとき「かしこみかしこみ」とする『もののけ姫』を連想させ、映画全体を災害(震災)に結ぶつけたのは、『千と千尋の神隠し』で宮崎駿が予想した都市崩壊と『風立ちぬ』で表現しようとした人為的な災害(戦争)をも新海誠は重ねようとしていると思う。ダイジンは『魔女の宅急便』の宅急便のキキである。しかしダイジンは必ずしも猫ではない。

もともと新海作品の人物は、例えば宮崎駿や細田守作品に見えるような人物が力を持たない。さらに踏み込むと、人物は何もしない。魅力的でもない。ドラマの中で何かをするとしたら好きになった人を主事ぐらいで、例えば細田守作品のような世界を背負うようなスケール感はない。そんな中、この映画の主人公の女子高生と大学生の椅子は何を意味するのか?

それは、新海誠監督自身のことなのではないだろうか。「君の名は。」で大作に挑戦し、期待されて「天気の子」を生み出し、そしてこの作品に至るまで彼が経験したこととはつまり、インディースで自らの手ですべてを作り上げる仕組みから、大勢の人と資本を動かすうちに、いつしか自らの意思からかけ離れてゆく創作過程の現実を目の当たりにした新海誠自身がこの映画の中心にある。

これまで3部作はいずれも震災や災害を描くという意味において同じである。そして人物と現実を遮るもの。この映画では扉だし、「君の名は。」では時間を超える家の襖や「天気の子」の鳥居など、人物がある空間を行き来して、現実に起きた災害と対峙するという物語だ。ただ、本作が過去2作と決定的に異にしていることは、災害が形になったことだ。ミミズという、まるで「もののけ姫」のデイダラボッチを思わせるものは何かというと、それは制御しきれないもの。表向きには災害だが、実は制御しきれないもうひとつのおおきなもの。メディアであり観客である。新海誠監督は事あるごとに観客を意識した映画作りを言葉として発している。しかし、作品の興行成績と評価は時として裏腹であり、必ずしも自らの意思と同期的ではない。「鬼滅の刃」が記録を塗り替えた事に対し「悔しい」と発言していることからも、彼がどれだけ興行を意識した作品を作ろうとしているかがよくわかる。しかもコロナ禍で日本映画の記録を塗り替えた「鬼滅の刃」の在り方を相当意識していることが伝わってくる。

長くなったが、つまり、この映画は新海誠の3部作と決裂することを意識した作品だ、ということなのだ。いわば「新海誠自身の戸締まり」がこの作品に秘められたメッセージだと思われる。この映画の中で、震災孤児となった主人公を叔母(母の妹)が世話をするが、この叔母が主人公と衝突するシーンは極めて残酷だ。「鈴芽のせいで人生を台無しにした。」に対し鈴芽は「それが重荷だった。」と応じる。もうひとつ、ダイジンが家に来た時「家族になる?」と誘った鈴芽は、ダイジンの本質を知らないのに「嫌いだ」と拒否してしまう。これらの矛盾はいずれも現実である。そのことは、新海誠監督が心を砕いて映画に命を注ぐのとは裏腹に、映画の評価が大きく揺れ動くことへのメッセージでもあると思う。彼は実に正直な人なのだ。

にもかかわらず、相変わらず心無い評論家はこの作品を色眼鏡で鑑賞して好きなことを言っている。かつて宮崎駿が「観客が馬鹿だ」(とは言っていないがそれに近い発言をしている)ことと、新海誠監督が直面している現実は近い。

それが、人の叡智を尽くしても止められない災害と、どんなに努力しても作りての思いが届かないマスメディアをシンクロさせることで、自分に決着をつけたのではないかと感じさせる。

間違っているかもしれないが、もし新海監督が本当にこの映画で戸締まりしたとしたら、彼の本領が本当に発揮されるのは次の作品からだ。大いに期待したい。