元禄十四年三月。江戸城にて勅使奉答の儀式が執り行われる日に、播州赤穂の城主浅野内匠頭は、松の廊下で高家旗本吉良上野介に斬りかかりる。旗本多門伝八郎の尽力にもかかわらず内匠頭は切腹の処分を受ける。一方上野介に関しては咎め無しとなった。悲報を受けた国許の赤穂城。城内は籠城か開城で紛糾していた。国家老大石内蔵助は京都より朝廷が今回の件に対してむしろ内匠頭に同情的な報を聞き安堵する。翌日登城する内蔵助を、今は流浪の身の幼なじみ井関徳兵衛が訪ね、一緒に籠城に加えてくれと申し出る。しかし内蔵助は拒絶する。最後の評定を前に、内蔵助は自分に判断を一任する血判を城内で求めるが、その数はけっして多くはなかった。その家臣たちに対し内蔵助は開城を宣言する。夜、内蔵助は帰宅途中で息子と共に切腹した徳兵衛を見つける。息絶え絶えの徳兵衛に対し内蔵助はその内心を告白するのだった。開城後内蔵助は山科に隠棲する。内蔵助はそこで遊蕩三昧に興じており、元家臣からも親戚からも忠義の心も忘れ果てたと罵られていた。しかしそれは世間を欺く為のものであった。内蔵助は嫡男主税に対して自分は元より上野介討ち取りを決意していることを伝える。内心を悟られぬために嘆願した養子浅野大学によるお家再興が、思いがけず進展してしまったため、仇討ちの障害となっていたのである。しかしお家再興は成らず、内蔵助は本懐を果たすべく、妻子と縁切し、江戸へと向かうことを決意するのだった。