今から三百年前、徳川四代将軍家綱の寛文年間の物語であるがその頃箱根の西、三島側の一帯は水がなくて稲作が出来なかった。そこで湖尻峠を堀り抜いて芦ノ湖の水を引く大工事が企てられて、江戸浅草の商人友野与右衛門が、土地の農民と力を合わせてこの前代未聞の難工事をすることになった。(これは後年の丹那トンネル工事に匹敵する日本土木史上の難工事だといわれる。)お上にも出来ぬこの大工事が、一町人と農民の手で成功すれば幕府の威光は地におちると考えた当時の江戸幕府の役人たちが、陰険な妨害をこれに加えて、与右衛門は二度も三度も捕らえられた。しかし人々はこれに屈しないで工事を始めてから三年目に両方から掘り進めたトンネルが貫通して、湖水の水が初めて三島の土地をうるおす箱根用水となった。その間、勢威並びなき箱根権現の快長僧正は与右衛門に組しこれを助け、一世の侠盗蒲生玄藩と島原の残党が大箱根を根城に乱闘するが、農民の多大の感謝と支持にもかかわらず、与右衛門は用水貴流と共に幕府の兇刃に倒れたのだった。