実在の聴覚障害のプロボクサーをモデルに描かれた作品。それが凄いチャンピオンというわけでもなく、対戦も数回しかしていない。ただ、聴覚障害である女性ボクサーなのだ。だがボクシングに限らず、聴覚が機能しないとなると、それだけでも恐ろしいハンディだ。ゴングの音も、レフェリーやセコンドの声も聞こえないのだから、一体どうやって状況を把握すればいいのだろう。健常者が相手では、圧倒的に不利なのは目に見えている。それでもケイコは戦う。相手を殴るのが、ストレス解消になるようだ。それでも何故、最も過酷なスポーツである、ボクシングを選んだのか。
そんなケイコ役の岸井ゆきの、文字通り体当たりの演技が素晴らしい。とにかくセリフがほぼない中で、表情や動作だけで感情を伝えなければならない。愛想笑いができない、不器用なケイコ。それでもトレーニングの合間に見せる、ふと零れてしまう笑顔に、ホッとさせられる。ミットで受けるトレーナーとの練習シーンが実に良い。まるで何かの楽器で演奏しているような、リズミカルなアンサンブルに魅了されてしまった。
聴覚障害の方は、相手の唇の動きで言葉を判断することもできるようだが、本作ではコロナの年を設定として反映させ、より困難な状況を作り上げる。みんなマスクをしているので、唇が読めない。相手がしゃべっていることさえ気づけない。相手の罵っているのが分からないのは、逆に精神衛生上はいいかもしれない。
聴覚障害者に接しようとする人は、中途半端な手話を覚える。それを相手は喜んでくれるだろうか。手話も使っていないと忘れてしまう。私も少し覚えたことがあるが、頻繁に接する人でないと、なかなか覚えられない。筆談という方法もあるが、手間がかかることは、みんな億劫がってしまう。
ケイコは、もしかしたらボクシングを通して、気持ちをぶつけていたのかもしれない。ジムの会長である、笹木(三浦友和)とのやりとりが良い。特に赤いキャップ。
ケイコはどこに向って走っていくのだろうか。
2022年キネマ旬報ベストテン第一位、同読者選出第一位。