本作品は「許されざる者」と同じ暴力を否定する映画だと思った。
誰が言ったのか忘れたけど、ハリー・キャラハンが定年退職した後を描いているみたい、というのはそうだろうと思う。
クリント・イーストウッドのアクション映画はハリー・キャラハンのイメージでやってきた。ハリー・キャラハン刑事は凶悪犯人の人権を認めず、そういう悪党にはどんな暴力を振るっても正しいということだ。
これは「ダーティハリー」ばかりでなく、多くのポリスアクション映画はそういう正義の暴力を肯定することで、観客はカタルシスを得たのだ。
だが時代が変わってどんな極悪非道な犯人でも人権を認めないと、警察の暴走や冤罪につながりかねないとなり、暴力はいかなる理由があっても否定すべき、となった。
ハリー・キャラハンを演じたスターが、「許されざる者」で彼の当たり役を否定する形で描いたのに、感慨深い深いものを得た。
本作品の主人公ウォルト・コワルスキーは朝鮮戦争で敵の少年兵を拷問して殺したことが今でも悔やみ、時々思い出してしまう。こういう場合は戦争だから仕方ない、上官の命令だったから仕方ない、と自分を正当化して精神の安定をはかる。
だがコワルスキーは上官の命令じゃなくて、自分から積極的に残虐行為を犯したことが、心の傷になってしまった。これが一生治ることができない傷だ。
コワルスキーは隣の家に住むモン族の少年と仲良くなる。彼にいろいろ教えることで精神的な安らぎを得ようとする。
だが少年にからんでくる少年の親戚の不良どもをボコボコにする。だが、それが少年の姉に対する暴行につながってしまったことに大いに後悔する。
それで姉の復讐をしようとする少年を閉じ込めて、ひとり復讐に行く。少年の手を汚すまいとする行為だが、しかし暴力の空虚さを痛感したコワルスキーはどうやって不良たちに復讐するのか、胸がドキドキした。
そして・・なるほど、こうきたか。勧善懲悪の悪党どもをぶっ殺してすっきりする映画じゃないので、観終わったらいろいろモヤモヤしたものが出来る。しかし暴力で解決しようとしてはいけないということがこちらの胸に響く。
私情になるが、この映画を封切り時に観た時は、それなりに映画を観続けて、少し疲れが出ていた頃だった。ある程度の本数をこなしたら、もう映画に見飽きたような感じになっていた。ストーリー展開もおおよそ予想できるから、若い頃のように衝撃とか深い感動を得ることはもうこれからはないだろうな、と思った。映画に見慣れたというか、マンネリになったというか。しかし、本作は若い頃に観た映画のような感動と衝撃を受けた。
映画に感動するのに、鑑賞歴と鑑賞本数は関係ない、と思った。どんな映画を数多く観ても、感動する、刺激になるなどというのはある、とこの作品で感じた。
そしてこれからも映画を観続けることに意欲が湧いてきた。淀川長治さんが感動できる映画を観ている途中で死んだら本望だとおっしゃっていたが、私も一生映画を観続けたい。
その時は映画館でやると映画館におおいに迷惑なので、自室でDVDかブルーレイ、あるいはネットフリックスかアマゾンプライムで観ている途中で死ねたら、一番望ましい死に方だな。