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鑑賞日 2021/08/11  登録日 2021/08/13  評点 80点 

鑑賞方法 映画館/愛知県/名古屋 ミッドランドスクエアシネマ 
3D/字幕 -/-
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「山田監督の青春と今の混沌とした社会との、“世代間格差”と言ってもいい時代の溝」

 ウーン…一本の映画を一つの作品として仕上げていく力、と言うかその構成力の確かさから言えば、今の映画界の中ではずば抜けて比類なき才能をこの作品でも指し示している事に変わりは無いのだが…それ程までに監督自身が乗りに乗って仕上げた作品である事が眼に見える様に察せられる作品だとは思うのだが…何処かで乗り切れない自分が居る。いい作品だとは思う。それだけに毎年の優れた映画を選出するベストテンには必ず顔を出すーその実力の高さには先ず敬意を示さなければ失礼に当たる。それだけの力を持った作品であった事に変わりは無いのだが、観終えた今、頭を過ぎるのは「これで良かったの?」と言う疑問符が先に立ってジジと虫が鳴く様に鳴き出す。これはジェネレーション・ギャップと言うものか。ジェネレーション・ギャップー世代間格差と言う言葉を以って片付けてしまえば事は簡単だが、それこそジジと虫が鳴く様に頭の裡に不協和音が拡がる。
 どうしようもないろくでなしの爺で所謂世間の鼻つまみ者のゴウこと円山郷直(沢田研二)が木戸賞応募のシナリオで認められて、祝賀会で皆の前で歌う時の歌が何で「東村山音頭」なの?もちろん当初予定されていたゴウ役の志村けんへのオマージュとしての意味は在ろうが、ゴウ役が代わった時点でどんなに足掻こうがもう志村さんが生きて戻って来る事は絶対にあり得ないのだから、志村けんさんから沢田研二に代わったのなら、沢田研二為りのゴウー沢田研二が演じるゴウならこんなゴウと言った芝居の余地、余白は未だ在ったのではないか。其処には結果として配役迄既に決まっていた志村さんへの監督のねぎらいや労わりの気持ちーこれは在ったんだろうけど、唯これが先に立ったのでは涙目に滲んで観ている対象が何も見えなくなってしまう。そう為ると登場人物のキャラクターが霞んでしまう。此処はゴウが助監督として駆けずり回っていた時代の愛唱歌の方が良かったのではないか。どうにもやさぐれてて酒と博打で身を持ち崩し、身勝手なでっかい夢に振り回されて、その夢の中で自分が今生きている社会を斜交いに見詰め、出たとこ勝負で一発当てる事にしか生きている自分を見出だせない男=ゴウ。こうやって見てみると映画界に生きる人間と言うのは、本当にやくざ者でだらしないよね。身の程知らずの大風呂敷ばかり広げて。それで何時も身を持ち崩しているんだけど、自分の懐き持っている夢にだけはこれは真正直。その様子は万事は頑是無い子供が安心しきった顔ですやすや眠っている様にも似て、その純情ぶりたるや、子供の時に抱いた夢を大事に抱え持った儘、子供が子供だった時の情操その儘に、体つきだけは大人に為った様ーそんな大人と言うよりは寧ろ大きな子供。其処にイノセントな、邪念や罪の意識の無い無邪気さが在るから、周りはその純情に心打たれて憎めないのだ。そう言う処に何処か『男はつらいよ』シリーズの車寅次郎の面影をゴウの中に引き摺る。そして其処に常に温かい太陽がイソップの「北風と太陽」で北風から旅人を護って居た様に、まだまだ大衆食堂から取り寄せる店屋物のかつ丼が大御馳走だった時代に、映画の夢を語って腹の足しにしていた生来の純情少年が、その儘映画の夢に恋心を語って居る様な、若き日のゴウ(菅田将暉)の体内に若き日の山田洋次もこんなだったのかなぁと、一杯のご飯が食べられなくても自分の本気で撮りたい明日の映画に希望の灯を燃やす、助監督時代の青春群像に想いを馳せる。だから岡持ち片手に料理を運んで来て、お腹を充たしてくれる淑子(永野萌衣)との今の時代から言ったら頼り無い程の純情で可憐な恋愛模様も、男二人して淑子を前に、恋の鞘当ての中に明日の自分達を語るゴウとテラシンこと寺林新太郎(野田洋次郎)とのどちらがより早く幸せを掴むかと言う幸福競争の頃も、その青春群像の中に実によく描き込まれている。其処には『二階の他人』で監督に為る前の、せっせとシナリオを書いていた『月給13,000円』の頃の山田の姿もこんなだったのかなぁとイメージさせられる。若き日の淑子を演じた永野萌衣もとっても可愛いがテラシンの青春時代がとてもいい。彼は或いは在日の朝鮮人なのかなぁーその心の裡に秘めるものの中に、若き日のゴウとの間に見せる恋の鞘当ての痕が「陰」と「陽」と為って、この時代の空気を吸い取っている。
 が、晩年に為って「今」の時代の男と女の間の心模様にもう一つ盛り上がりが無い。特に晩年のテラシンを演じた小林稔侍の存在が薄い。『鉄道員(ぽっぽや)』の様な芝居ならあれで充分だったと思うが、ゴウや淑子を交えての過去に、お互い幼かったかも知れないが、それでもそれが「恋」と言える心の通い合いが在ったのなら、昔相手の事を想って燻ぶった火のその後の心の情景が在っても良かったのではないか。それともう一点。この映画を「寅さん」に譬えるならゴウが寅さんである事は間違いないだろうが、淑子の存在はマドンナでは無くあれは諏訪さくらだろうー事実、ゴウと淑子との間の愛情は男と女の間の情と言うよりは、寧ろ肉親の愛に近いものだ。が、此処には博に当たる人物が居ない。敢えて言えば娘の歩(寺島しのぶ)だが、もう少しガツンと言ってくれる人間が居ない事がこの映画のアキレスの腱だった様に思う。それは或いは山田監督が過ぎ去った助監督時代の日々の中に自分自身が最も篤かった青春時代の血潮を描く事に拘ったその裏返し埜結果なのだろうが、同時にコロナ禍などでは無く、人の世の心の移ろいの中に既にその生の盛りを過ぎた者の視点から今の世を見詰めた時に何が映るのかと言う、明日の時代への提言が博の語る様な批判精神と共に欲しかった。
 この映画には随所に例えばフランク・キャプラが往年の名作の中に描き出して来た様な人間賛歌が溢れていて、それがこの映画の骨太の骨格と為っているのだが、その骨格と為る夢の様に美しい世界と言うのは監督が映画界で汗を搔いて明日の映画を夢見ていた、当時の日本にとっても高度成長期。が、「今」と言う時代の中で私達が生きる生活のサイクルは余りに破天荒に狂っている様を露呈し、コロナ禍の吹き荒び、治まらない世の中で、たったひと月で何千万円もの負債を負う飲食業者も珍しく無いと聞く。そんな中で夢を淡いふわふわとした頼り無い夢で終わらせない為にも、今日を生きる現代的視点の中で、夢を持ち、次の世代に夢を託すと言う事がどういう事かと言う処迄描いて見せて欲しかった。
 日本映画頑張れ。もっと今の時代にとっての映画を語ろう。其処にきっと「映画愛」が生まれる。