1927年、フィンランド南部の農家の3人娘の末っ子として生まれたマイヤ・イソラ。13歳で家を出て一人暮らしとなり、厳しい戦時下を生き抜き45年、17歳年上の商業芸術家ゲオルグ・レアンデリン(ヨック)と結婚。翌年19歳でクリスティーナを出産する。ヨックとは共に暮らすこともなく離婚、母トイニにクリスティーナを預け、マイヤはヘルシンキの芸術大学へ進学する。この時から、マイヤは離れて暮らす娘に手紙を送り続ける。初めてのノルウェーへの海外旅行で出会った壺をデザインしたファブリックを大学のコンテストに出品すると、マリメッコの前身であるプリンテックス社を立ち上げたアルミ・ラティアの目に止まる。アルミはマイヤの作品を購入し、マイヤはデザイナーとして雇われることに。経営者とデザイナー、アルミとマイヤの唯一無二のパートナーシップの始まりである。52年、画家のヤーッコ・ソメルサロと結婚。2人は描いた絵を売りながらヨーロッパを旅し、カウニスマキに小さなアトリエを構える。マイヤはアシスタントとしてヤーッコを支えながら、こっそりと絵を描き続けていた。55年、ヤーッコと離婚したマイヤは創作に邁進し、旅する生活がその源となっていく。58年に手がけた「装飾シリーズ」は評判となり、マイヤの名前が知られるきっかけとなる。マリメッコはアメリカ進出を果たし、その後の「バロックシリーズ」や「建築シリーズ」など、マイヤの大胆でカラフルなデザインはマリメッコの海外での成功に大きく貢献した。マイヤはマリメッコにおける主力デザイナーとなっていたが、創作環境に対する理解のなさなどを理由に退社を決意、あらためてマリメッコとフリーランスのデザイナーとしての契約を結び直した。64年、マイヤは花のデザインだけを集めた「花シリーズ」を制作。花をファブリックのモチーフにすることは許さないとしていたアルミだったが、そのデザインを見て考えを変え多くのデザインを購入。そのうちのひとつが「Unikko(ウニッコ)」であり、その後マリメッコのアイコンとなった。マイヤはデザイナーとしてだけでなく画家としても活躍し、ヨーロッパ各地やアメリカで展覧会を開催。2001年3月3日に亡くなるまで絵画の制作に取り組み、フィンランドの美術コレクションに多くの作品が収蔵された。マリメッコで手掛けたデザインの多くは復刻され、デザイナーとなった娘のクリスティーナ、孫のエンマの三代に渡って継承されている。