1943年生まれの広河隆一が本格的にカメラを手にしたのは大学2年生の時。ドキュメンタリー写真部を立ち上げ、学生運動の先頭に立った。しかし運動が収束してくると周囲はスーツに身を包み社会と折り合いをつけ始める。その変わり身の早さについていけなかった広河は大学卒業後、1967年からイスラエルの農業共同体キブツに参加、社会主義の実践を掲げるコミュニティに理想を求めた。だがその直後、第3次中東戦争が勃発。彼の取材の歴史はパレスチナから始まる。1982年、イスラエル軍に包囲されたレバノンのパレスチナ難民キャンプで起きた虐殺事件を撮影、その映像が証拠として世界に配信された。1989年にはチェルノブイリ事故によって立入禁止になった地区を西側のジャーナリストとして初めて取材し、隠された放射能汚染を告発。人間の尊厳が奪われている場所を広河は“人間の戦場”と呼ぶ。「どうすればこういう風景が広がることから免れるのか。失われたのは健康だけでなく、故郷とそのなかにある記憶。そういうものを撮ることがフォトジャーナリストの大事な仕事」と語る広河。一方、活動は取材だけにとどまらず、「チェルノブイリ子ども基金」「パレスチナの子どもの里親運動」を立ち上げ、傷ついた子どもたちの救援活動に奔走する。2011年の福島原発事故後には子どもたちの健康回復のため、沖縄県久米島に保養センター「球美の里」を設立。そして2014年、広河は10年務めてきた報道写真誌「DAYS JAPAN」編集長を退任する。それは残された時間を現場取材に献げるための決断であった。