天安門事件が起こり、またベルリンの壁が崩壊された年でもある1989年10月、山形を目指して世界各国から記録映画作家たちが集まった。世界の各地で彼らは自分たちの古びて窮屈になった殻を破り捨て、現在の自分たちに相応しい形を獲得しようと激しくもがいていた。それは東欧や社会主義圏の人々ばかりが苦しんでいるのではなく、制度の違いはあってもアメリカの作品もブラジルの作品も自分たちの文化を厳しく見つめていた。だが、アジアからは一本の作品もノミネートされなかった。「アジアでドキュメンタリーの製作が困難なのは何故なのか!?」それを話し合うためにアジアの若い映画作家たちが集まり、映画を作ったスタッフと映画を見た人々が映画と世界について様々なディスカッションを繰り広げる。そして彼らはこの映画祭が今後も持続されていくことを願い、「アジアにおけるドキュメンタリー映画の種を蒔き、いつの日か風と共に舞い上がるであろう!」と、宣言するのだった。