一九四一年、幾多の折衝にもかかわらず十二月七日、日本は対米国交断絶の最後通牒をワシントンの日本大使館に送ることになった。そして野村、来栖両大使がその書類をもって大使館を出るころ真珠湾に奇襲攻撃が加えられた。華々しい緒戦の勝利。だがミッドウェー、ガダルカナルの敗戦を境に、日本は敗北の一途をたどり、一九四五年七月ポツダム宣言の発表につづく広島・長崎への原爆投下によって八月十五日、敗戦を決定した。三十日には厚木にマッカーサー元帥が進駐、九月二日ミズーリ号で降伏文書の調印が行われた。つづいて戦犯として東条英機が逮捕され、近衛文麿は自殺した。戦犯摘発は容赦なく進み、各国の検察団も続々入京した。一方、戦犯となった被告を弁護すべく日本人弁護人団が結成された。A級被告は二十八人。そして二十一年五月三日、国際軍事裁判の幕が切って落された。インド、オランダ、カナダ、イギリス、アメリカ、豪州、中国、ソ連、フランス、ニュージーランド、フィリピンの順で判事が着席、裁判長ウェッブ判事が開廷宣言文を読み上げた。静かな被告席の中にあって大川周明だけが落着かず、東条の頭を手で打つ一幕もあった。裁判は起訴状の朗読につづき罪状認否に入ったが、被告全員は無罪を申立て早くも波乱を呼んだ。清瀬弁護人が立上り国際裁判の管轄に対する動議を提出したが、首席検事キーナンは「この裁判は世界の平和と安全のために正義の正しき執行である」と述べ激しく対立した。裁判は、その後十ヵ月にわたる検察側の、日本の侵略行為に関する立証につづいて二十二年二月から被告の抗弁に入った。清瀬弁護人は、この戦争が日本の生存のために万止むを得ず自衛権を行使したことを説明、その証拠として開戦前夜の世界情勢と日米和平交渉の真相を明るみに出した。しかし、二十三年十一月十二日、運命の日は来り、東条ら七人の絞首刑を初めとして各被告に判決が下された。米国最高裁に提出された訴願も却下され、十二月二十三日、花山師と最後の言葉を交した被告たちは絞首台上へと登っていった。