太平洋戦争の末期、昭和廿年になると沖縄に戦雲は迫り、沖縄師範の生徒たちはペンをツルハシに代えて軍司令部の洞窟陣地構築に協力していた。新垣は母親が九州へ疎開することになったので、三浦先生は彼に母と一緒に行けと勧めたが、同級の金城等に卑怯者と罵られ、母だけをやって自分はふみ止った。出張先の東京から危険を冒して帰島した津田校長は、予科の生徒まで司令官直属隊として徴集される事に反対したが許されず、生徒と運命を共にする決心をした。三月廿五日、米軍は慶良間列島に上陸、この危急に備えて師範学校職員生徒は全員、鉄血勤王隊として徴集され金城、山里等は斬込隊を編成し、新垣、上江洲等廿二名は情報宣伝隊員として千早隊を編成した。四月一日、ついに米軍は上陸、日本軍は次第に南におされ、天長節の大反撃も噂だけに終った。六月末、司令官は生徒たちにそれとなく降伏を勧めて自決した。伊豆味も上江洲も比嘉も識名も戦死した。そして新垣は日本降伏も知らず洞窟に立て篭っていたが、三浦先生に探し出されて収容所へ向う。それまで同行した兵らはそれに応ぜず自決した。戦後建てられた沖縄師範健児の塔の前で、新垣は若き命が再び無駄に散らないことを祈るのだった。