信州沓掛の時次郎は、一宿一飯の恩義から六ッ田の三造を斬ってしまった。しかもその三造からその女房おきぬと子供太郎吉の行末を托された。つくづくやくざ稼業が嫌になった彼は、おきぬの三味線で信州追分の門附をしながら中仙道熊谷宿までたどりついた。この時おきぬは死んだ三造の子供を身ごもって臨月になっていたので働くことも出来ず年の瀬を迎えた。そのため生活にも困り、生れて来る子供の用意も、と心あせった時次郎は、二度と足を踏み込むまいと決心していた土地の親分同志の喧嘩に助っ人に雇われて行った。昼夜十二刻で一両の日当を稼ぐため時次郎が生命を刃の下にさらしているとき、おきぬは難産のため時次郎の帰りを待ち兼ねて死んで行った。太郎吉の手を引いて再び旅に出た時次郎は、初めて太郎吉に「父つあん」と呼ばれなから、この子だけは堅気に育てようと深く決心をするのだった。