世界的の音楽家パデレフスキーが久し振りでピアノ独奏会を開いた日、満員の盛況だったのは元よりの話だが、この夜珍しくパデレフスキーはアンコールにムーンライト・ソナタを弾いた。それは彼にとっても想い出深い曲であり、彼はそれを当夜聴衆の中にいた或る夫婦とその娘のために弾いたのであった。それは何故か。四年前のことである。パデレフスキーの乗った旅客機がスエーデンの片田舎に不時着した時、旅客一同はリンデンボルグ男爵夫人の城に客となった。男爵夫人の孫娘イングリッドは土地管理人のエリックと幼馴染みで、エリックは彼女に結婚を申し込んでいたのだが、若い彼女の心は未だ定まらないでいた。所で、このイングリッドの両親は今は故人となっている。しかし、彼女の父と母とを結びつけたのはかつて二人がパデレフスキーの演奏を聴いた時なのであった。パデレフスキーはこの彼にも感慨深い城で幸福を味わった。彼は男爵夫人が面倒を見ている育児園で女の子達のために自らダンスの曲も弾いた。しかし、この旅客の一人マリオ・デ・ラ・コスタという伊達者にイングリッドの若い気持ちは動いて、エリックは焦慮し、男爵夫人は心を悩ませた。このマリオは実は手品師で、彼は乙女を巧く欺いて金のために彼女に馳落ちをすすめた。イングリッドがその策に危うく乗せられ様とした時、男爵夫人はよくそれを防ぎ、マリオに金を与えて城から立ち退かせた。イングリッドの動揺した心が元に復し、彼女がエリックに再びすがろうとした時、パデレフスキーは、この一家に想い出深いムーンライト・ソナタを奏でた。この曲でイングリッドはエリックと結ばれたのである。