一八五八年、ペテルスブルグに住む若い作曲家ムソルグスキー(アレクサンドル・ボリソフ)は、仲間のバラキレフ、キユイ、リムスキイ=コルサコフ、ボロジンと批評家のスターソフと共に、グリソカの示す新らしい民族音楽に感動した。一八六三年、故郷に帰って民衆の苦難を見たムソルグスキーは、再びペテルスブルグに出て、仲間達と共に無料音楽学校を開いた。彼はプーシキンの「ボリス・ゴドノフ」の作曲を志し、一八七〇年に第一稿を完成したが、彼の歌曲が支配階級の怒りにふれ上演出来なかった。スターソフはその論文を法廷でとがめられ、音楽学校も財政上の行詰りから閉鎖され、バラキレフは音楽から袂を分って行くなど、仲間には災厄相ついだが、ムソルグスキイは屈せず「ボリス」の改作に着手、第二稿が再び上演禁止にあったあと、ついに仲間の協力によってマリンスキイ劇場で上演することが出来、人々を感激の嵐にまきこんだ。