この映画の監督脚本はズルい、とまで言わない僕は
ネタバレ
関西大学を舞台にしているのは珍しい。
青年(萩原利久)が一目惚れした女子学生(河合優美)と話をするようになるプロセス自体には新味がないのだが、二人の話の中身がレストランのメニュー名の由来など身近な話題をダシにした批評論として面白いので、とりあえず観ていく。これは原作のスケッチの巧さが効いているのだろう。
青年がアルバイトをしている銭湯清掃には相棒がいて、出町柳に在る大学の女子学生サチ。演じるは伊東蒼で、彼女は出演シーン毎にメリハリの効かせ具合が抜群だった。その白眉が青年への告白シーンである。
サチがアルバイト帰りに青年に告白する。青年に恋人ができたことを聞いて、その前に自分が告白しておけば良かった、と後悔の念を抱きながらの独白になる。これが見もので、時間にして10分近くになる。懸命に言葉を紡ぎ出しながら、喋り終えて、「明日は普通に会おう」と手を振って暗闇の中に消えていく。
サチを演じた伊東蒼がアルバイト先の風呂場での踊るような振る舞いから、帰り際の長い告白まで、軽妙な初々しさに切なさも滲ませて突出した迫力を見せた(2025年キネマ旬報助演女優賞受賞)。
そのために、萩原利久と河合優美が語り合う日常批評の描写から、一挙に伊東蒼が見せる恋の揺らめきにドラマとして重心が移行する。
ちょうど、ドラマの重心が移行した所で、河合優美が青年に対するネガティブな感情を初めて見せる映像が挿入される。この場面は何なんだろう。河合優美がスナックのカウンターめいた所でどこかの女性に、青年の鈍感さや勘違いを愚痴っているのだ。
突然の河合優美の別の顔を見せられて、このワンショットの思いがけない描写をどう意味付けたらいいのか戸惑った。一体この女子学生の正体は何者なんだ。突然ラブロマンスものがサスペンスもの、もしくは心理劇に転調させるのだろうか。「サイコ」(ヒチコック監督)の前半の逃亡劇が突然流れを変質させるあの手かと思った。一体どこへ話を持っていくつもりなんだろう。
一方、サチはと言えば、告白以来、バイト先に顔を見せなくなった。「明日は普通に会おう」と自分から言っていたのに、何なのだ。「明日」はとっくに過ぎているのに、未だサチは顔を見せない。
訳の分からない状態が続く。
河合優美が別の顔に見えたのは、デートを袖にされたために起きた青年の妄想と決めてかかるのは何だか客観性がないなぁ、でも、それが一番合理的な解釈かなぁと思ったりするが、はっきりしない不安が続く。サチの家を訪ねる場面で、不安は解消されることになる。
でも、河合優美の意外性を見せられてからサチの家に至るまでのこちらの不安を脚本家と演出家はどう処理するつもりだったのだろう。この曖昧感のままで映画を見続ける私はある種の混乱と不安と少しばかりの怒りを抱えた状態に置かれていた。
原作も同じように仕組まれているのか、気持ちの安定を求めて目を通すことにした。
原作の方は約束をすっぽかされた青年の妄想であることが明快だった。その流れを私は映像からは見失っていたのかと、改めて映画の方を繰り返し見直したのだが、映像での展開は彼の妄想場面だと描ききれていない...と思う。
全ての謎が解けた今になって思うのは、伊東蒼の演じたサチの造形が素晴らしい出来栄えだったので、なおさら、河合優美の裏の顔が青年の妄想であると明確に描いてほしかった。なぜそうしなかったのか。
観ていて不愉快になったので、青年と同じように私も妄想に陥って思う。話が分かりやすくなることを恐れるほど監督は前衛ぶった小物ではないと今まで思っていた。どうしてあの場面が妄想シーンと言えるのか、何でそんなに混乱させる映像にする必要があったのかと、頭を抱える私なのでした。
そもそも、映画で理解できなかった部分を補う意味で原作に当たるのは邪道もいいとこだ。そんなことをしなければ映像が理解できないために原作を読もうとしているとき、虎の巻やアンチョコで手短かに答え合わせをしようと邪の道に入る自分を思い知る。観客をそんなコンプレックス気分に陥らせる映像化は失敗だと言っておきたい。
何でこんなに誤解を生むような分かりにくい編集にしたんだろう。意図的に観客を曖昧な状態にして引っ張るのなら、それを回収して観客にカタルシスを与えるシーンがあっても良かった。そうすれば、河合優美は伊東蒼にドラマの重心を持っていかれたままにならなくて済んだはずだ。
これは監督の計算違いだったということか。それともどこかに私の見落としがあったのだろうか。大久監督はこれまでの作品で、こんな曖昧さで引っ張るようなハッタリめいたことをしたのを見たことがない。
河合優美と会えなくなって意気消沈した時期から青年は跛行していた。これもよく分からない。どうしてなのか。原作を読んで初めて意味が分かった。
そもそもこの映画を観ている時、私の集中力が切れていたということなのだろうか。それを棚上げにして、監督と脚本を非難しているのだろうか。だんだん弱気になってきて自罰的になってくる。これからは、加齢とともにこういう不満が多くなって、私はあちこちの映画を非難しまくるのだろうか。その意味で、この映画は私にはあまり楽しくはなかった、伊藤蒼を見られたことを除いて(そう言えば、3年前に「恋は光」のレビューで、伊東蒼についてひと言触れたことを思い出した)。