久松静児

|Seiji Hisamatsu| (監督/脚本)

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本名 重男
出身地 茨城県新治郡栄村(のち桜村)
生年月日 1912/02/20
没年月日 1990/12/28

略歴▼ もっと見る▲ 閉じる

【“駅前”シリーズなど庶民監督の第一人者】茨城県の生まれ。中学のときに単身上京して第一外語学校に入るが中退。次に飛行機乗りを目指して飛行学校に入るが、乗れる飛行機があるわけでもなく、やがてここも中退。当時、飛行機の次に好きだった映画の世界に入ろうと、人の紹介で河合映画巣鴨撮影所に入所。17歳のときだった。高見貞衛監督につき、彼が帝キネ、太秦、新興キネマと移籍するのに従う。1934年、文化映画を数本監督した後に、河津清三郎主演の「暁の合唱」で監督デビューする。新興の方針でメロドラマを撮りまくり、中でも「女の魂」(39)が大ヒット、経営の苦しい新興の台所を潤す。太平洋戦争に突入後、大映大泉に移るが生フィルムの制限から仕事はなく、やっと新作を撮ろうとしたところに召集令状が来る。野砲部隊に配属され、満州のチチハル、北支の包頭、朝鮮の広州と移動するが、運良く銃火を交えることもなく終戦を迎える。【東宝の屋台骨を支える】戦後第1作は「夜光る顔」(46)。以降も「パレットナイフの殺人」(46)、「女囚36号」「蝶々失踪事件」(47)、「三面鏡の恐怖」(48)、「氷柱の美女」(50)などの大映スリラー映画を撮る。51年には石川達三原作「泥にまみれて」を撮り、プログラム・ピクチャー監督のイメージを脱出した。だが、「地の果てまで」(53)が、自らも失敗と感じるほどの作品に終わり、フリーとなり捲土重来を期する。東映で「放浪記」(54)、新東宝で「女の暦」(54)、東京映画で「母の初恋」(54)などを撮ったのちに、製作を再開した日活と契約し、「警察日記」(55)を発表する。森繁久彌主演で東北の田舎町の人々を描いた人情ドラマの佳作となった。娼家を舞台に、そこに出入りする娼婦たちの生態を描いた「渡り鳥いつ帰る」(55)、異色のミステリー「神阪四郎の犯罪」(56)、つづり方に(61)は、69年まで24作作られた“駅前”シリーズの2作目(シリーズ「駅前茶釜」まで5作品を担当、この夢をかける3兄妹を描いた「つづり方兄妹」(58)などの佳作を連発する。その後は、“庶民派監督”としてキャリアを積み、とくに「駅前団地」としては実質的に1作目)であり、時期の東宝の屋台骨を“社長”シリーズとともに支えることになる。以降は“駅前”を撮り続けながら、「南の島に雪が降る」(61)、「愛のうず潮」(62)、「沙羅の門」(64)などの異色作、そして「クレージー作戦・先手必勝」(63)、フランキー堺主演の「花のお江戸の法界坊」(65)など、お得意の喜劇を撮り、次第に、活躍の場をテレビに移した。

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1965年6月上旬号

第一線監督はいまこう考える:近況報告特集

1965年2月下旬号

なくて七癖:12 久松静児の巻

1960年12月増刊号 日本映画監督特集

作家掌論:久松静児

1956年4月下旬号

旬報論壇:久松静児の距離

1956年4月上旬春の特別号

研究 久松静児:久松静児論

研究 久松静児:久松静児の方向

研究 久松静児:久松静児小伝

研究 久松静児:自作を語る

1955年増刊 名作シナリオ集(冬)

日活映画 :神坂四郎の犯罪

1955年6月上旬号

日本映画第一線の動き:久松静児の「渡り鳥いつ帰る」

1955年増刊 日本映画大鑑 映画人篇

監督寸描:久松静児

1955年新年特別号

グラビア特集 映画人クローズアップ:久松静児

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