高齢化社会をディストピアと設定して政府により75歳になったら死ぬ権利(政府が希望者に安楽に殺してくれる)を選択できる制度をめぐってのドラマ。
ちなみに安楽死は病気等その苦痛や回復する見込みがない限定的な場合に本人の意思に基ずき医師が生命装置を外すので本作の背景となる問題意識とはかなり異なると考える。
本作はまさに人の弱みに付け込んだ合法的殺人(国家的)をクールに事務的に処理している様を描いている。
決して苦痛を取り除くためではなく、国家財政を名目とした自殺幇助罪を行政事務としてこなす話だ。
ヒロインは78歳だがホテルの客室清掃員として仕事をきちんとこなし、1人暮らしをしている。
彼女は仕事仲間を通じてコミュニテイがあり、仕事を通じて生活のリズムと生計をたてている。
ところが仕事仲間の作業中に倒れたことから、高齢者を雇用することのリスク(会社・商売の評判)を避けるため高齢者を一律に解雇する。
このような解雇が労働法上許されないのでは?と疑問に思うが、子の解雇によってヒロインは多くの者を失うことになる。
しかも住居の団地も老朽化を理由に解体されることになり、移転先を探すことになるが職を失った高齢の彼女は移住先を見つけるのも難しい。
公営団地は本来経済的社会的弱者保護のための施設なのだから、行政ももっと丁寧な対応をするとは思うが…。
更に連絡の取れなくなった友人宅に様子を伺いに行ったところで友人の孤独死に遭遇する。
毎日の徒労感、空虚感が重なりついに彼女は死ぬ権利を選択する。
そこから支度金として10万が与えられ、死ぬ日までにコールセンターで15分の通話ができる。
ここで若い話し相手がヒロインの要望を受けて一緒にボーリングをしてメロンソーダを愉しむ。この行為は禁止されていることだが、好感の持てるヒロインの話ぶりに応じたのだ。
この禁止ルールは死ぬ決意をした高齢者の決意を翻意させないように情が映らないように仕向けたルールだ。
このルールの裏側にある効率を最優先して人間性を排除する仕組みはナチスのアイヒマンの行った収容所での大量虐殺と同根である。
実際に生身のヒロインと会い、人柄を知った彼女にはこの制度の非人間的な合理性に気ずいていく。
また市役所でこの制度の窓口として明るく働く若者も、数少ない親族である叔父が申請にきたことから、叔父の生活に関心を持ちは始め情が移っていく。
死ぬ日に施設に叔父を救出に行くが、既に死にせめて集団で埋葬されるのではなく葬儀をしようと叔父の死体を運び出すのも彼の人間性の回復なのか?
長生きが国家目標だった国がいつの間にか本作のようなディストピアをリアルに感じさせることになろうとはあまりにもブラックだ。