世の中にある映画の極限を映画館で体現する、という映画としての在り方を頂点まで押し上げる世界屈指の作品といえる。ハンガリーという国のことすら知らない日本人がタル・ベーラの作品をこよなく愛する理由は、小津安二郎作品のような厳格に拘束された状態からの開放だと思う。映画の内容は一定の予備知識がないとまるで理解できない。それでも劇場を満席にした観客とここに7時間以上時をともにした生涯忘れがたき体験は永遠だ。
(略)
前日に『ダムネーション/天罰』を鑑賞して、この日体験した『サタンタンゴ』は、一定の連続性がある。まるで脈絡のないドラマのようだが『ダムネーション/天罰』よりは物語性がある。自らの知識では計り知れないので、プログラムに記載された深谷志寿氏(東海大学准教授)らの解説によれば、この物語は12章だてて、前半の6章が順行で後半の6章が逆行してゆく輪環構造になっているようだ。従って前半で図体の大きい医師(ドクター)がアルコールが切れて出かけるシーンとラストシーンは重なる。映画は医師が窓に板を釘付けして真っ暗になるが、このあとまた同じ話しが繰り返されるということのようだ。これはタイトルのタンゴの意味も重ねていて、タンゴとは6歩進んで6歩下がるダンスで、これらの章立てはまさにタンゴ。輪環構造のタンゴらしい。
そしてもうひとつ重要なのは、ここの農民がなぜ大金を持っていたのか?という疑問だが、これはハンガリーの社会主義政策末期に国策である農場を解散するのに1年分の給料を受け取ったあとという設定だかららしい。ハンガリーはソビエト連邦の軍事介入を受け入れ、社会主義時代が長く、タル・ベーラ自身も国家事情で映画を作ることができないので、社会主義政権下の大学を卒業してこれらの作品を作ったということだ。
ソビエトというとアンドレイ・タルコフスキーを連想する方も多いと思うが、同じ共産圏で弾圧された社会で生み出される映画には共通性がある。タルコフスキーの初期作品の切れ味とワンカットでつなぐ手法はまさにタルコフスキーのメソッドだろう。
話しをもどすと、農民が受け取った1年分の給料を集めて、死んだはずのイリミアーシュが彼らを連れてゆくのは、単に農民に職業を斡旋するのではなく、彼らを国家のスパイとして潜伏させるためなのだそうだ。イリミアーシュと相棒のペトリナは労働忌避者で、当時の社会主義政権では警察に逮捕されてしまう。逮捕された二人は警察の提案で農民をスパイとして潜伏させるアイデアを受け入れたのだ。後半で警官が報告書を作成しているのはこうした流れに沿っている。
このように整理すると話しはわかりやすいが、映画は全く説明を回避し、映像をただただ見せることに徹している。そして貧しい農村の狂気を重ねる。アル中や虐待など、社会主義だろうが資本主義だろうがどこにでも生じるであろう人間の根底に潜む悪(サタン)の面を露悪的に示す。この映画が企画された頃のハンガリーは必ずしも貧しい状況ではなかった。従ってこの映画はハンガリーの実態をしめすというような程度の映画ではない。人の中に棲むサタンがタンゴのように輪環することを立証した映画なのだ。こうした普遍性に気づいた世界の多くの映画関係者がタル・ベーラを評価したのはこの部分なのだ。
とにかくその映像と耳に残る音のすごさは忘れがたき体験だ。『ニーチェの馬』でも自然の猛威を示す風の音などが強烈なインパクトを与えるが、この映画も随所に音の演出が施されている。牛や馬の息吹や歩く音。強風が人物を追い立てるシーン。2度ほど出てくるこの演出はカメラと巨大な扇風機が俳優を背後から追い立てているのだろうか。
医師がアルコールを切らせて倒れるシーンや、この映画で最も衝撃的な少女と猫のシーンなどは、映画史上類を見ない傑出したシーンだ。誰も真似できない優れたシーン。そしてハンガリーの大地の中央に道を配して、その道を画面の向こうに向かって歩かせる演出。延々と地平線に向かって歩くシーンをそのまま写し続ける。最後に医師が唯一向こうから手前に歩いてくる。これらの修行のようなシーンはこの映画の軸だ。観客はとてつもなく長い長いこうしたシーンと対峙させられる。7時間以上に及ぶこうしたシーンを延々と突きつけらた観客は最後に真っ暗な劇場で静かに終焉を迎える。これはまさに生と死。そしてまた新たに生まれる光を待ち焦がれまるで自分が胎児になったかのような気持ちにさせられる。劇場の照明が照らされて生と開放を感じるのだ。
これは単なる映画ではない映画体験の極限といえる。映画が人々に示す在り方の極限。人々の中に内在するサタンを露出させそれを封じ込める。そして見終えたあと外に出てこの映画体験を反芻する。そしてそれはきっと2度と体験することのできない体験だったことを認識する瞬間でもある。