大アマゾンの半魚人は片思いだった。その無念を晴らした作品なのか
スティーブン・スピルバーグが社会派に移行してからは、こういうファンタジー映画は今だとギルレオ・デル・トロ監督が適役なんだろう。心優しきファンタジーである。今の時代だとこういう設定だとダークな結末になったりもするが、ハッピーエンドにしてしまう。これが良いのだ。
考えてみれば、人間と半魚人の恋愛してセックスまで想像させるというのはグロテスクである。だが、これも映画を観ているうちには素直に観ていられる。
でも人間と半魚人との恋だから、現実にはあり得ない話ではあるからファンタジーと割り切って観たらグロテスクでもないだろう。それにヒロインのエルザ(サリー・ホーキンス)はもしかしたらかつては半魚人であったが、陸に上がって人間に変貌したのではないかと想定すればグロテスクでもなんでもない。エルザは聾唖の設定だが、彼女が半魚人で言葉を持たないとすればそれは納得がいくだろう。また助けようとする半魚人と言葉を交わさなくても以心伝心で通じ合うというのは同族だからという解釈ができるのではないか。
その一方で悪役となるストックランド(マイケル・シャノン)はやたら男らしくなきゃいかんという強迫観念でもあるのか、もうそのマッチョリズムはアメリカ人男性がよしとするものである。いやそれは日本でも同じ男性優位主義なのはおなじである。もっとも筋肉もりもりが大好きなアメリカの白人男性ができる男になると、東洋人男性には不利だな。背は低いし、シュワちゃんのような筋肉の大きさといったら、かないません。
だが、昨今ともなるとこの筋肉至上主義も嫌悪をもたらす向きも多かろう。それにベトナム戦争での敗戦、湾岸戦争も核兵器を持っていないのに無理くり戦争をおっぱじめるので、このマッチョリズムに嫌悪感を持つ人々も多くなった。
そういうマッチョなストックランドが身障者であるエルザに頭から押さえつける構図は、もうアメリカ社会の悪しき面を批判した作品だと受け止めた。いや男尊女卑は世界共通なので、これはどこの国でもあるとして共通の問題としているのだろうと思う。
ありえない話に現実の問題点を盛り込んでいくが、現実のつらさをほどほどに後味がよくなるように描いている点がお見事だった。
ただひとつ余計なことをしているなあと思ったのは、エルザの自慰場面とヌードになる場面。女性の裸は好きなれど、自分が鑑賞する映画に全部が全部それを期待しているわけではない。こちらが求めていないことをされても困るなあというところである。70年代からやたらとヌードとセックス場面を挟み込むのが主流になったけれど、このファンタジー映画ではそれを挿入するのは似合わない。雰囲気ぶちこわしである。