マザー・テレサがインタビューで"世界平和のために我々は何をすべきか?"と質問を受け、「家に帰ってご家族とお祈りしなさい。」というエピソードを記憶している。
この映画は映画としての機能を果たしてはいないが、マザー・テレサという人物そのものに近づこうとしたことの価値は大きい。あらゆるシーンに真実味はなく、映像としては虚像だ。ワンシーンだけカラスの群がるゴミ置場のゴミを拾う女性を写すシーンがあったが、それ以外は全て嘘くさい。それでもこの映画には一定の価値がある。
シスターからマザーになりまでの過程で、インド、カルカッタの貧しい人々のために自らの人生を賭して過ごした女性の晩年を描いている。物語は比較的平和な内容ではあるが、それでもヒンドゥーの反発にあったり、自らの祖国に帰れない、あるいは親を呼び寄せることができない障害を祈り通すことで克服した姿が映る。
遠藤周作の『沈黙』をスコセッシが映画化したが、あちらは頑なにキリスト教を広めることに無心するが、マザーは布教しない。ここに彼女の凄さがある。人と人が衝突するのは、対立軸を作るからだ。布教せずに貧しい人々を救う、または死を待つ人のための施設など、他人に利益を与えるだけ、という姿勢に圧倒される。たとえそれが神に対するものだとしても。
しかし、この映画の主題は手紙なのだ。
晩年の手紙の内容は神への疑問。
そのことをこの映画は述べようとしている。
マザー・テレサの功績が、彼女の戦わざる献身的な姿勢にのみにフォーカスされているとしたら、この映画は、その認識を最後に否定してみせる。
彼女は祈っても祈っても救いがもたらされないことを、彼女の信頼する宣教師に手紙で書いていた。この映画のタイトル『The letters』は、テレサの神に対する疑問や疑いについて暗示的にしめしているのだ。
これはテレサ自身がキリストの領域に至ったことの意味でもある。これほど苦しみながら、自分の全てを捨てて貧困に身を寄せた神の代弁者は、晩年、神に疑問を抱いていた、という衝撃の事実が暴露される。
ベルイマン作品の常連であり、『エクソシスト』でメリン神父を演じたマックス・フォン・シドーが語り部として重要な役を演じてくれて嬉しい。