1920年代後半に始まったトーキー映画に反発していたチャップリンは、反面時代のトレンドに対し不安もあったようで本来サイレント映画の本作に音楽と音響を加えている。
その音楽もチャップリンの作曲で以後彼の作品ほとんどの音楽も担当し名曲を世に出している。
彼がトーキーに対して反発していたのは彼のパントマイムや誰にでもわかるアクションの単純な面白さに対する絶対的な自信から来たのだろうが、後の作品を見ると結果として音声も彼のテーマを伝えることに成功している。
ただアクションの映像の単純な面白さは同様だが音声によって彼の政治的メッセージがより明確になったことはその後の映画人生を大きく変えたことは明らかだ。
その過渡期の本作は、いつもの浮浪者チャーリーが格差の大きい大都会で浮いた存在として登場し、貧しい目の見えない花売り娘と自殺しようとした富豪の男との出会い、物語の骨格となる。
目の見えない花売り娘への恋心と彼女のお金持ちとしてのチャーリーに対する思慕はよく語られるところだが、自殺しようとした富豪の男との関係は余り語られない。
しかし本作の舞台である大都会での富豪の自殺願望(酔うとそうなる)が1929年に怒った大恐慌に関連していることは明らかで、命を助けられた(このシーンのギャグは教科書のようだ。)富豪がチャーリーに感謝し親友扱いをする。
ところが酔いがさめるとチャーリーのことを忘れ浮浪者扱いとする。
ここに富豪の2面性(表面的な理性と隠された親しみある感情、並びに資本家と裸の人間)が描かれ、チャーリーを翻弄する。
このタイプをアルコールを通じた関係として戯画化し、皮肉る。
一方で目の見えない花売り娘が目が見えるようになって、若く素敵な紳士が花を注文した後で、チャーリーが新聞売りの少年たちにいたずらされた後でみすぼらしい姿で再会する。
彼女はその浮浪者姿のチャーリーを恩人とはわかっていない。
ただ彼女を見つめ、好意が伝わる中で胸ポケットに挿していた花が散ってしまった様子を哀れんだ花屋の彼女が花を渡したとき手の感触と彼の「目が治ったんだね」というセリフで恩人だと気ずくのだ。
その時のチャーリーの喜ばしくも恥ずかし気な複雑な表情は、永遠にチャップリン映画のアイコンとなった。
ただそれは驚きと戸惑う娘の表情の後のシーンのため、今後二人はどうなるのだろうといらない予想もしてしまう、本作の微妙なエンデイングの印象となった。