【Leading to the frontiers…】
眼を剥き、歯を食いしばり、声成らぬ声上げ、地這い、脚引きずり、血濡れで骨肉を貪る - 全編に渡り身体性を発現し続けるカプリオが素晴らしい。
全身を緊縛されながらも 渾身の呻きと震えに依って 怒りを表出するグラス(カプリオ)に、森の木々が騒めく。
或いは、杖に縋りながらも 徐々に歩を強め 遂に小高い丘を登攀するグラスを、夥しく蠢動するアメリカバイソンの蹄音の地響きが鼓舞激励する。
~ 人の感情/行動と 自然の生動とが見事に響鳴している。
[人と超常の響鳴、不離一体性]-上記に着目し、以下 技巧及び主題系を考察したい。
序盤に於けるネイティヴアメリカン襲撃に依る野戦。敵味方相当数が繚乱し混淆雑多となる中を、キャメラは縦横無尽に疾駆し 捉えてゆく、見つめてゆく。
次々と移り変わる被写対象。後景映り込む情報量密度。フレーム内に収まらぬ事物をも想起させるレイアウト/キャメラムーブ/サウンドエフェクトの妙趣。計算し尽くされた照明設計。
キャメラルート/ディレクション:フローチャートの徹底熟慮考察(作為性)がうかがえよう。
それは即ち、観客に強く意識させる事となる-〈キャメラの存在〉を-。
逆光に依り映り込むサンシャインハレーション。人物顔貌最接写に依り靄霞みとなる白息。そして画面に付着する血汐…。何れもキャメラがそこに存在する証明だ。
それら殊更に強調されるキャメラが『見つめる事』『見つめる者の存在』をより強意識化する。
相反するかの如く(そして当然の如く)登場人物達はキャメラの存在にまるで気付かない。
この時『絶対に存在しつつも絶対に認識されぬもの』として“眼差す者”、“自然/神”、“私”が透過(等価)する。
然しグラスは、最期に諒解する-その眼差しの存在を-。
グラスの呟く『神に委ねる』。そして … looking at the camera - 逆転等価する窃視者と被窃視者。作為的キャメラディレクションに依る[非現実性]。頻出する[タルコフスキー的因子]。そして、殆ど[瞬きする事の無いグラス]を鑑みれば 、やはり行き着く先は一つか(タルコフスキー諸作洗礼済であれば、その訴求はすんなりと そしてより深淵へと届くだろう)。
-映画と観客の関係性をも示唆しつつ、人と超常の響鳴、不離一体の境地、生死の彼岸、未踏の精神的地平 -Frontier- へ…。
《劇場観賞》