最近作られた「ゴジラ」映画には、共通して“ゴジラそのもの”への深い愛情がある。『シン・ゴジラ』も『ゴジラ-1.0』も、単に怪獣を暴れさせるのではなく、ゴジラという存在が日本人にとって何なのかを、真正面から描こうとしている。ゴジラはそこで「神々しさ」の象徴になる。
ゴジラ映画における「神々しさ」とは、単なる巨大さや強さではない。人間が理解も制御もできない存在を前にしたとき、言葉も倫理も制度も無力化し、ただ畏怖だけが残る。その瞬間、ゴジラは怪獣から“神性”へと変質する。
『シン・ゴジラ』と『ゴジラ-1.0』はともにゴジラを神格化するが、その設計思想は正反対だ。
『シン・ゴジラ』のゴジラは、人格を持たない。少なくとも人間が理解できる意志としては描かれず、むしろ災害や地殻変動、放射能、進化といった「社会の外側の力」の具現として現れる。直立後の姿は怪獣というより神像に近く、吠えること以上に“そこに立つこと”が恐怖を生む。熱線も怒りの表現ではなく、都市を一方的に裁断する天罰のようだ。ここでの神々しさは冷たく、非人間的で、超越そのものと言える。
一方『ゴジラ-1.0』の神々しさは情念的だ。戦後の焼け跡に現れるゴジラは、自然現象というより「戦争の亡霊」であり、個人の罪悪感や恐怖を増幅させる存在として迫ってくる。こちらを見ているかのような圧、復元する肉体の不死性、そして破壊が生活と命の喪失に直結する痛み――それらは“祟り神”の質感を帯びる。ゴジラは世界の外側にいるのではなく、人間の内側へ踏み込み、罪を暴き、審判を下す。
結局、『シン』は「超越する神」であり、『-1.0』は「審判する神」だ。同じゴジラでありながら、時代の恐怖に応じて神性の形を変える。その変幻自在こそ、ゴジラがキャラクターではなく“概念”であることの証明なのだ。