終戦の3か月前、長野県の阿智村から満蒙開拓移民がソ連国境近くに送り込まれた。長岳寺の住職にして国民学校の教師をしていた山本慈昭は1年の約束で妻子を連れて開拓団に同行した。しかしその3か月後ソ連が参戦し阿智郷開拓団は命からがら逃げることになる。すでに関東軍は撤退しており、途中でソ連軍に捕まり収容所へ入れられ、成年男子はシベリアでの労働に従事させられた。しかし1年半の後に本国送還となり阿智村に戻った慈昭は妻子が収容所で中国内戦に巻き込まれ死んだことを知らされた。阿智郷満蒙開拓団の名簿を作り、未帰還者(死没者)を確認し、せめて遺骨を故郷に返したいと願っていた。寺の総本山の住職が日中友好協会の幹部に就任したのをきっかけに、ダム建設の強制労働で命を亡くした中国人の遺骨収集を行い中国へ送り届けたことをきっかけに、中国残留孤児からの手紙が慈昭のもとにとどき、実は多くの子供たちが死んだのではなく中国人に預けられ残されていることを知る。国に働きかけマスコミに働きかけ国交正常化の後に中国残留孤児帰国事業も始まる。そして死んだと思っていた長女が生きていたことを知り再会する。
残留孤児の帰国者が今の日本では生活が出来ないことは別とし、山本慈昭が懇願されて満蒙開拓団に加わり、ソ連参戦から日本の敗戦を経るなか長い道のりを逃げ続け、それでもソ連軍に捕まり強制労働も経験し、ようやく故郷に帰ったのに妻子は死亡したと伝えられるその悲惨さ。そんな中、幼い子供たちが実は生きていたと知れば、その子たちをなんとしてでも日本へ故郷へ連れ戻したいという思いは当然のことに感じられました。それに対する国の対応は、軍人ではない、希望して開拓に参加したのだろう、という建前論と、国交がないため中国との交渉は出来ないという現実に阻まれて、実際の帰国事業は国交正常化まで待たざるを得なかった。そうなれば長い年月中国での生活をしていた孤児たちが日本語を忘れ日本の心をなくしていくのは当然すぎる結末でしょう。内藤剛志は年取ってからはこういういい人を演じるのにぴったりな感じでした。若い時から老人までを一人で演じていたけど、できれば戦中開拓団参加時代はもっと若々しい人の方が良かったかな。冬前にソ連参戦を迎えていたらもっとたくさんの人が死んでしまったかも。国内事情に関する描写には今一つな感じが多々ありましたが、開拓団が逃げ延びようとする描写には、悲惨な行軍をする軍隊とは違ったリアリティがありました。