伊勢監督は、小児科医師・石本浩市さんと小児がんの子どもたちのキャンプで出逢い、『風のかたち』というドキュメンタリー映画を製作した。以後友人となった石本さんの妻・弥生さんが認知症になってしまった。「物が動く」「誰かが来て見張っている」などと言っては不安を訴え、当初は統合失調症と診断されたが、その後レビー小体型認知症との診断が下された。石本さんが妻の症状についての記録を、綿密に書いた日記が決め手となった。このレビー小体型は、普通の医者が見てもなかなか判断が難しい病気。それによって薬も違う。医者が短い時間で診断するより、身近にいる家族が一番症状が分かる。病人の日常を、とにかく細かく記録することは重要だ。
映画は偶然にも、2011年3月11日から始まる。石本医師から、妻の話を聞いてくれと伊勢監督に依頼があり、カメラを回した日が、たまたまその日だった。日本中が震災で大パニックに陥っていた時であるが、石本さんは妻のことで頭が一杯だ。メディアの発展で、世界中の出来ごとが自分の目の前にあると思えてしまうが、切実なのは、本当に自分の目の前の出来ごとなのだ。
このドキュメンタリー映画では、認知症そのものを丁寧に教えるのではなく、夫婦の愛情物語として描かれている。病気を抱えた妻を大切に看病する夫との、ラブロマンスみたいな映画だ。
弥生さんは、食事も一人ではできない。洗濯物もたためず、家事は唯一、掃除機を回すだけ。それも同じ所をずっと掃除している。夫の名前も思い出せないこともある。そんな妻の相手をして、石本さんも鬱病になってしまったというが、映画では苦労の様子はあまり写されない。むしろ、そんな生活の中でも、夫婦で笑い合っている姿が、多く目につく。とぼけたことを言う弥生さんに、石本さんはつい笑ってしまうのだ。
弥生さんが楽しそうに歌う姿も多く撮られている。タンゴの「ラ・クンパルシータ」をやたらと口ずさみながら笑うのだ。どうしてこの歌なのか、石本さんにもさっぱり分からない。この曲について、何か楽しい思い出でもあるのだろうか。弥生さんがこんな状態になってしまった今では、もうその真相を聞きだすことはできない。人の心というのは、実に謎が多く、摩訶不思議である。
弥生さんの見せる無邪気な笑顔を、素直にかわいいと石本さんは感じたことだろう。病気になったことによって、妻の本当の人柄が見えてきた。病気自体は不幸なことだが、それによって夫婦の絆が強まったことは事実だろう。優しく接してくれる夫のことを、弥生さんも嬉しく思っているに違いない。