レゴという題材を使いつつも、ドラマそのものは極めて幅広くキャラクターを巻き込んで、よくこれだけの著作権を得たものと感心するぐらいあらゆる映画がぎっしり詰まっている。子供向けではなく、子供を連れて大人が見に行く映画という意味で、商業性も高い。しかしよくよくこの物語を追いかけると、マニュアル通りに働く建築現場の作業員が別の人物と重なってくる。
(以下ネタバレ、読まなくてもいいです。)
とにかく最後の30分に驚かされた。正直言って、子供向けレゴ・ムービーをたらたら鑑賞するのは歳をとるとつらい。画面転換も早く、追いつけない。しかし、ドラマをよく見つめるとこれは想像もできないようなすごい話しだった。驚いた。
話題はそれるが、ほとんどの映画は『地獄の黙示録』と『スターウォーズ』で説明がつく。『レゴムービー』の父子関係だって、全てこれらの映画がモチーフとなっている。もちろん作り手はそんなこと考えていないだろうが、無意識に引用されている。『地獄の黙示録』がフレイザーの”金枝篇”を意識したことと、『レゴムービー』のラストは同じだ。敵(おしごと大王)が実は自分の父親だった、というのは言うまでもなく『スターウォーズ』であり、見方によっては『地獄の黙示録』のウィラードとカーツの関係。
マニュアル青年のエメットは、最後に出てくる子供のように見えて、実は父親そのものだ。少し違うかもしれないがホドロフスキーの『リアリティのダンス』がそれだ。ホドロフスキー監督の息子が映画の中で父親役を演じて子供(ホドロフスキー自身)を叱責するという二重構造であり輪環構造。この映画の父親は恐らく建築現場で仕事をしているのであろう。それを息子は知っていて、主人公である父親と自分を重ねたのである。
子供は想像力の宝だ。レゴを使って様々な世界を生み出すことができる。しかしそれには設計図というマニュアルが必要だ。選ばれし者(スペシャル)とは常識に合わせてマニュアル通りにことを進める者のことだった、というオチもまた複雑だ。
前半の展開でバットマンがやたらと出てくるのだが、彼はブルース・ウェインという大金持ちの息子。しかしドラマの中心は平凡な会社員である父親と息子の話しだ。金持ち中流の平凡人物像を対比させる。そして父親は頑なに自分の世界を固定しようとする。子供は敢えてそれを破壊して自分の物語を作ろうとする。自分の世界に凝り固まって子供を受け入れない父親。それは社会的に言うとある意味で児童虐待と同じだ。子供を否定して子供のように自分の世界に個室する父親という像は、前述の2本の映画でおおよその説明がついてしまう。まさに人間社会の黙示録がこの『レゴ・ムービー』だった。びっくりした。
ここに母親像は示されないものの、主人公に一目惚れするワイルドスタイル(ワイルドガールか)が女性像だ。彼女の異常とも思える主人公エメットに対する愛情はまるで母親のようでもある。そして最後に父親と若いする現実世界の息子が、もし、父親を殺そうと思っていたとしたら、これは(『地獄の黙示録』にも重なるが)オイディプス王の悲劇だ。父親の大きな存在があっても、子供に愛情が注がれず、それが憎しみへと変化してゆく、という暗示的なモンタージュは母性に対する過剰な憧れへと結ばれていく可能性があると思う。