タイムスリップの冒険物語として有名だが、本作は優れた青春物語でもある。しかも主人公マーティの青春でもあり、マーティのパパとママの青春物語でもある。特に80年代の若者文化と、親世代である50年代の若者文化の両方が描かれており、興味深い。
マーティは、ふとしたことから30年前にタイムスリップしてしまう。そこで出会った10代のママが、あろうことか自分に恋をしてしまう。このままだとパパとの恋が芽生えないまま、二人が結婚しないとなると、将来自分が生まれなくなってしまう!そこでマーティは何とかママとパパの間を取り持とうと奮闘する。面白いのは、30年後の未来から来たマーティと50年代の若者たちの文化のギャップだ。マーティが着ているダウンベストを救命胴衣と間違えるなどの小ネタも満載だが、出色はやはりプロムでのマーティのギター演奏シーンだろう。興に乗って“現代的”なパフォーマンスを披露した彼に、会場が冷たい視線を送るのには爆笑してしまった。彼らの表情は、若者文化に眉を顰める大人たちのそれと全く同じだからだ。いつの時代も若者たちは大人には理解されない。しかし、その大人たちも若い頃は大人たちに不興を買っていたのだ。
さて、子供は親の若い頃を想像できないものだ。特に自分のやることなすことにガミガミ言う母親が、可憐な乙女だったとは思いもよらない。せめて想像するとしたら、地味でお堅くつまらない青春時代を送っていたのだと思うくらいだ。マーティの場合もそうだ。彼はいつも母から「私が若い頃は、そんなはしたないことは絶対にしなかった」と聞かされていたから、よもや10代の母が、自分から男の子に迫るなど、にわかに信じられない。マーティのカルチャーショックは、50年代の文化だけではないのだ。母ロレインは、学校一の不良から言い寄られるほどの人気の少女で、この年代の少女らしく、恋や性に興味深々の普通の少女だ。親に内緒でタバコを吸ったり、ちょっぴり悪いこともする。健全な証拠だ、良かったね、マーティ。いや、そんな彼女から迫られるのだから良くはないか(笑)。反対にマーティのパパはというと、まさに地味でお堅くつまらない青春を送っている。不良にいじめられ、片思いのロレインをデートに誘うこともできない。女の子とダンスするより家で本を読んでいたいタイプだ。マーティは、そんなパパを何とかママとくっつけようと涙ぐましい努力をする。しかしつまらないと思っていたパパは、密かにSF小説を書いていた。何のとりえもないと思っていたパパの隠れた才能を発見して、ちょっぴり嬉しくなったりもする。
さて、本作のメインストーリーはタイムスリップだ。マーティが何故タイムスリップしたかというと、年の離れた親友である科学者のドクが、デロリアンを改造して作ったタイムマシンを完成させたからだ。タイムマシンはドクの30年来の夢だった。ドク本人がタイムスリップをするはずが、アクシデントによってマーティが30年前へとタイムトリップしてしまったのだ。マーティは50年代のこの町に住んでいる30年前のドクに助けを求める。つまり、ドクが本格的にタイムマシンの研究を始めるきっかけは自分自身だったのだ。もしもマーティが未来からやってこなければ、このタイムマシンは完成しないことになる。因果応報とはこのことか(笑)。
タイムマシンの次元転移装置の燃料はプルトニウムだったため、30年前では手にいれることはできない。ドクはプルトニウムの代わりに雷の電力を利用することを思いつく。マーティによる未来の情報で、時計台に雷が落ちる日時が分かったからだ。時計台のシーンは本作のクライマックスだ。ドクが時計台にぶら下がるシーンは、サイレント期の喜劇王ハロルド・ロイドの『要人無用』のオマージュか?こうしてギリギリのところでマーティが現在に帰ることができたのだった。
しかし帰って来た世界はマーティの知っている世界と違っていた。何のとりえもなく、上司にいじめられていたパパは、SF小説家として大成しており、スリムで美しいママと今でもラブラブだ。無職だった兄も就職しており、家は裕福で、両親はマーティの欲しかった新車をプレゼントしてくれた。そしてパパをいじめていた上司(30年前ロレインに言い寄っていた不良)は使用人となっており、パパに頭が上がらなくなっていた。マーティがタイムスリップしたおかげで、家族の人生は好転したのだ。しかし本当にこれでハッピーエンドとしていいのか?と、老婆心ながら心配してしまう。何故ならマーティ本人だけが違う人生を知っているからだ。タイムスリップものには不可避の「タイムパラドックス」。マーティの幼い頃の記憶は今の家族とは共有できない。もっと言えば30年前、マーティが未来を変えたせいでマーティの過去が消えてしまったのだ。まあ、そんな野暮なことは考えず、SF娯楽作品として楽しめばいいのだけど・・・(笑)。