30年ぶりとまでは言わないが、実に久しぶりの鑑賞だった。
最初にこの作品を観た時ほどの感動は得られなかったが、それでもシンプルにワクワクさせられる作品であることに変わりはなかった。
舞台設定は1985年のカリフォルニアのある田舎町。
颯爽とエレキギターを弾きこなし、スケボーで街中を駆け巡る一見イカした風のマーティだが、冴えない両親の影響なのか、どことなく負け犬の空気を漂わせている。
それでも彼にはジェニファーという素敵な恋人と、ドクという変わり者の科学者の友人がいる。
ある日、マーティはドクからタイムマシンを完成させたという知らせを受け取る。
深夜のショッピングモールで、いよいよタイムマシンの起動実験が行われる。
マシンの動力源は核反応によるものなのだが、どうやらドクはかなり危ういルートでプルトニウムを入手したらしい。
そして騙されたと分かったテロリスト集団の襲撃によって、ドクは射殺されてしまう。
タイムマシンに乗り込んで逃亡するマーティは、そのまま30年前の1955年にタイムスリップしてしまう。
そこはまだ彼の父と母が出会う前の世界だった。
マーティは元の時代に戻るために若かりし日のドクに会いに行く。
最初こそマーティの話を信じなかったドクだが、やがて自分が未来でタイムマシンの理論を成功させたことを知り、喜びの声を上げる。
しかしドクは未来に干渉してはならないと、それ以上のマーティの言葉に耳を塞ぐ。
そして干渉してはいけないのは過去も同じであるとマーティに告げる。
しかし、ここに到るまでに何とマーティは父のジョージと母のロレインと会ってしまっていた。
しかもあろうことか、二人が恋仲になるはずのきっかけを彼は潰してしまったのだ。
何とか二人をくっつけようとするマーティだが、ジョージは想像以上のヘタレであり、ロレインは何とマーティに恋をしてしまう。
このままではマーティは存在しなくなってしまう。
そして元の時代に戻るための唯一のチャンスの日が刻一刻と迫っていた。
SFとしてももちろん面白いが、ティーンエイジャーの青春ものとしても甘酸っぱく刺激的で、またコメディのセンスも秀逸だった。
ジョージを馬鹿にし続けるガキ大将的存在のビフがかなり強烈なインパクトを残す。
またマーティ役のマイケル・J・フォックスの初々しさも印象的だが、ロレイン役のリー・トンプソンがとてもキュートだった。
何とかマーティはジョージとロレインの仲を取りもとうとするのだが、結果的にジョージは自分の力でビフからロレインを救い出すことになる。
二人は結ばれめでたしめでたしだ。
マーティが元の時代に戻るためのエネルギーを得るために、時計台に落ちる雷を利用するクライマックスは映画史に残る名シーンだ。
マーティはドクに30年後の真実を告げることが出来ないままタイムスリップしてしまうが、彼の叫びはしっかりと30年後に届いていたことが最後に判明する。
このままハッピーエンドでは終わらず、新たな冒険に繋がるエピソードで映画は幕を閉じる。
エンターテイメントとして最後まで余すことなく楽しめる作品だが、タイムスリップに関しては今観ると突っ込みどころが満載だ。
果たして過去に干渉した場合、元の時代に戻っても現在は書き換えらているのだろうか。
それともパラレルワールドが存在するだけなのだろうか。
元の時代に戻ってもマーティには書き換えられた時代の記憶はない。
とすると、書き換えられた地代のそれまでのマーティはどこに存在するのか?
色々と考え出すとややこしくなる。
ジョージとロレインの仲が離れていくにつれて、マーティが所持している写真から兄と姉と自分の姿が少しずつ消えていく設定はさすがに無理があるだろうと思ってしまった。
そして町田智浩氏の指摘するように、ロバート・ゼメキス監督の白人至上主義の思想が反映されていると感じる部分も見受けられた。
昨今の多様性に配慮し過ぎた結果の、窮屈さを感じさせる作品も問題だと思うが、やはりアメリカの人種問題はデリケートで複雑だ。
登場人物がほぼ白人なのは気にならなかったが、結果的にマーティがチャック・ベリーにインスピレーションを与えてしまう展開は確かに行き過ぎだと感じた。
『インディジョーンズ』シリーズを改めて観返した時の違和感を、この映画でも抱いてしまったのは何とも複雑な気持ちだ。