2013年、本作を以て宮崎駿監督が長篇アニメーションからの引退を表明した作品であります。尤も周知の如くそれは撤回され、本作の完成後「君たちはどう生きるか」の制作にかかつてをります。タイトルは堀辰雄の小説と同じですが、堀辰雄の名は原案とか原作にはなく、あくまでも宮崎駿監督自身が雑誌「モデルグラフィックス」に連載した漫画のアニメ化で、本作でも「原作・脚本・監督=宮崎駿」となつてゐます。ただ「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」の表記はあります。
主人公はゼロ戦設計で有名な堀越二郎が実名で登場しますが、彼の評伝をアニメ化した訳ではなく、堀辰雄の小説「美しい村」「風立ちぬ」の世界に堀越を放り込んだ感じでせうか。
二郎は東京帝大入学の為上京中の汽車に乗車中、関東大震災に遭遇、そこで里見菜穂子とケガをした彼女の付人を助けました。その場では別れる二郎と菜穂子。数年後大学を卒業した二郎は、世界恐慌の中、飛行機開発会社の三菱に入社、即戦力として期待され、同僚で親友でありライヷルの本庄と共にドイツ留学に派遣されます。
入社五年後には、海軍の戦闘機開発のリーダーに抜擢されますが、そのお披露目では飛行機が空中分解し失敗、挫折を味はふ事になります。避暑地軽井沢での滞在中、偶然にも菜穂子と再会、共に好意を抱き二人は急接近、将来を誓ふ仲に。しかし菜穂子は結核もちで、結婚は病気が治るまで待つと約束します。
菜穂子は山のサナトリウムで療養してゐましたが、病状の重さから二人は「残された時間」を意識するやうになります。二郎は開発中の戦闘機の仕事から手が離せないので、菜穂子は二郎が居候してゐる上司の黒川邸のはなれで同居する事になります。その際けじめをつける為黒川夫妻の媒酌で結婚しました。
家では病床の菜穂子と手を繋ぎながら設計の仕事を続ける二郎。つひに完成し飛行試験が行はれる日、菜穂子は置手紙を残してひつそりとサナトリウムに一人で戻るのでした......
堀越二郎の物語といふ事で、駿監督得意の航空活劇が繰り広げられるのかと予想してゐましたが、それは外れて、あくまでも飛行機作りに情熱を燃やす男の生き方を示すものでした。賛否あつた庵野秀明のぶつきらばうな声も、やや変人めいた二郎のキャラクタアには合つてゐると存じます。夢の中に登場するカプローニ伯爵の存在が、飛行機への憧れを増幅させてゐます。そして堀越の設定はかなり史実とは離れ、特に菜穂子との絡みは堀辰雄の物語になつてゐます。
堀辰雄は軽井沢と縁があり、本作でも重要な場所となつてゐます。堀は師と仰ぐ芥川龍之介の愛人の娘・片山聡子と軽井沢で恋に落ち、肺を病み療養に来たのも軽井沢、片山聡子と別れ傷心を癒しに訪れたのも軽井沢、そして運命の人矢野綾子と出会つたのも軽井沢、彼女は絵を画いてゐたさうです。勿論菜穂子のモデルとなつた人。「菜穂子」の名は、やはり堀の小説「菜穂子」から採つてゐます。
反戦の視点も敢て表には出さず、特高警察に追はれるエピソードも申し訳程度に語られるだけで、主題としては「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」彼らの思ひをアニメ作品に具現化したやうに感じました。
勿論ラヴストオリイでもあり、「風立ちぬ」のタイトル通り二人の重要な場面に風が吹きます。パラソルが飛ばされたり、紙飛行機が自らの意志で飛ぶかのやうな風を吹かせてゐました。
活劇でもないし魔法や魔女も登場しませんが、二郎と菜穂子の短くもささやかな幸福がおつさんには眩しいのです。結婚した夜、菜穂子が「来て」と云ふシーンなんかは、来たるであらう悲劇を予感させて切なくなります。堀辰雄の小説にも、確か「今の生活は、あとになつてみれば、どんなに幸福で美しいものであつたか分かるでせう」と云ふ台詞がありました。
過去の宮崎駿作品を期待する向きには戸惑ふ異色作と申せませうが、珠玉の異色作と存じます。故・井上ひさし氏も述べてゐました、人生の99%は辛い事ばかりだが、生きねばならんと。ユーミンの主題歌をチョイスしたのも流石でした。これ以上ぴつたりの曲はございますまい。まるで1973年の荒井由実が、40年後に封切られる映画を予感して書き下ろしたかと思はせる程でした。