#metoo運動から遡ること30年前の1991年の制作。けれど、そのテーマは決して古くない。古びていない。古びていないというこは、この映画で提出された問題がいまだに解決されていないということだ。主人公のひとりテルマは高校を卒業したらすぐにモラハラ男と結婚をしたバカな田舎の専業主婦。友人のルイーズは田舎のダイナーのウエイトレス。二人には少し年齢差があるので学校時代の友人ではないらしい(物語の途中でルイーズがテキサスにおそらく長くいたことがわかる)。友情のはじまりへの言及はないが、ふたりに共通するのは人生に不器用な平凡な女性であるということか。
テルマの家、キッチンの雑多な様子や、旅行の荷造りを見れば家事も不得意でかつ理知的な女性でないことがわかる。一方、ルイーズの整った家の様子や、旅行鞄の中身を美しくピッキングするさまは(というより整いすぎの感がある)高学歴ではないけれど世間知のある女性であることがわかる。テルマは女の子は馬鹿でも可愛いければ結婚するから良いという、彼女の共同体の考え方に疑問を持ったこともなかったのだろう。その共同体から少し外れてみえるルイーズには(スーザン・サランドンの実年齢から考えると30代後半の設定だろう)どうも癒えない傷のある過去があるようである。
彼女たちの周りの男性のほとんどが、彼女たちから搾取することしか考えていない。それは性的であれ、労働力としてであれ。働かせ盗む。終始、男性の論理からの嫌がらせを受け、それに気づくことさへ良しとされない。物語の終盤、大型タンクローリーを吹き飛ばすシーンには多くの女性が快哉を叫んだことだろう。もちろん、あれはいけない、運転手から卑猥な言葉、仕草を投げかけられた「くらい」のことで、あれはいけない。いけないけれど、自分が生まれて来てから受けた性的な嫌がらせ、女の子でしょ、と撓められてきた記憶、それをすべて吹き飛ばしてくれたのだ。「あたしたちに謝りなさい」と。
唯一の理解者に見えるのが刑事ハルである。「ケガはしてないかい」と。昔のレイプ事件を話すときには、声を潜め配慮を示し、同僚には発砲を止める。それは理解者の姿ではあろうが、どこか弱い女性には優しくあらねばという心理の働きもあるのではないだろうか。であるから、二人は彼の静止をも振り切るのである。
何十台ものパトカーに囲まれたテルマが叫ぶ、「私たちのために!」と。いままでずっと無視されてきた人間の言葉だ。
結末は後味がわるいだろうか。悪いかもしれない。けれど、覚醒し男と同じように自分の欲望に気付いた女はいつも罰せられるのである。アンナ・カレーニナもボバリー夫人も、紫の上も、古くは楽園を追放されるイブもそうであった。
赤茶けたアメリカのどこまでも雄々しい大地を死へ向かう二人が示唆的である。