映画史上名場面である最後の演説は、最初に観た時はチャップリンの気持ちがストレートにセリフに出しているので、映画表現としてはどうなの?と思っていた。
チャップリンの主張は映画なら、映像で含みを持たせる表現をするのが良いわけで、セリフもテーマを連想させる表現をするのが良いのではないかと思う。これを何の含みもないストレートに描いたんじゃあ、稚拙だと捉えられる。
当初の案は違っている。演説の合間にドイツでは行進を止めダンスをする、スペインでは銃殺をやめて抱き合う、日本軍は中国に爆弾のかわりにおもちゃを落とすという場面を入れるつもりだったらしい。
だけどその案はボツにして、チャップリンが延々と観客に向かって演説するという映画表現としてはひねりも暗示もない、いわば一見工夫のない撮り方を採用した。
最初の案を捨てたのは、みんなが戦争を放棄することを映画の中で描くのではなく、現実の世界にいる観客たちがそういう世界を築き上げる、という形にしたかったということだった。
飢えや差別のない世界、雇用や福祉の充実している政治などを訴えるチャップリンのこの映画でのメッセージは今でも色あせない。それはまだ世界がそういう理想の世界ではないからだ。
チャップリンはこの映画で映画表現のうまさを捨ててでも、観客に直に伝わるやり方でこの映画にクライマックスを描いた。
それに当時はアメリカがナチスと対決することに消極的、国民の間でもヒトラーを英雄視するところもあった。だからこそ一見稚拙に思うあの演説はチャップリンに取っては命がけ。
アメリカ国内のナチス信望者がチャーリーを襲うことも考えられるし、ヒトラーがもしこの戦争で勝ったら、それこそ命がない。チャーリーとしても大変な覚悟でこの演説場面を撮った。それを考えると大変な場面でありすごく感銘がもたらされる。