公開当時、デ・ニーロが、薄汚れたジャンバーを着て両手をポケットに突っ込み俯きながらこちらに歩いてくる(しかも背景の街はモノクロのぼかし)ポスターを見たとき中学生になったばかりの自分には、「これで映画が成立するの?」といった疑問しか湧かなかった。当時、自分にとっての映画とは、面白いもの、悲しいもの、怖いもの、笑えるものと言ったわかりやすく感情を刺激する範囲のものでしかなかったのであろう。だから陰気な感じの本作をロードショーでは当然敬遠した。それでも初見は初公開時に近いニ番館での二本立てだったと思う。「人間というもののわからなさで一本の作品を成している」と感じた初めての映画だったかもしれない。そんなファーストコンタクトを劇場に飾ってあったあのポスターからフッと思い出した。
あれから折りに触れて何度となく見て来たが見るたびに唸らされるようになった。何故ならもの心がついてこの映画が(漠然とだが)何を描いているのか分かりだすとその時代性やテーマはもとより、バーナード・ハーマンのあの素晴らしいスコア、ニューヨークの下町をころがして見せる撮影、インパクトのある共演者たちと見る度に着眼点が変わってくるからだ。
しかし何よりこの作品の見どころは、主人公トラビス・ビックルという男の内面描写に尽きる。作品はトラビスのモノローグ(気だるいダイアリー風なのが秀逸)と彼の目から見た街や人間と言った主観描写に溢れている。よって彼がタクシーを転がす夜のニューヨークの街は果てしなく汚くて醜く、瞬くネオンは実に猥雑だ。
ロバート・デ・ニーロは、主人公トラビス・ビックルという役柄になりきるためかなり作り込んだであろう、その努力が随時にうかがえる。冒頭、タクシー会社に面接に来たトラビスの顔は青白く後頭部からちょっと髪毛が逆立っている。寝癖というよりもずっと寝ていない人の乱れ方を自然と見る側に想起させる。他人との会話も然り。一定の相槌で人と合わせることはできるが実は政治のことも福祉政策のこともわからない。かといって話題的に明るいところがあるかといえばそうでもなく「クリス・クリストファーソンがいい」と聞けば店員に案内されないと分からない。やりとりの中に常に一定の知的水準である一貫性が垣間見える。デ・ニーロのキャラクター造形の工夫は実に見事としか言いようがない。そして何よりこの男のこだわり様とそこに溢れる数々の自己矛盾。それは潔癖なまでの正義感の強さと暴力性、ナルシシズムに代表される。脚本のポール・シュレイダーと監督マーティン・スコセッシはあの混乱の戦場を潜り抜けてきた若者の精神構造を意外性溢れる展開を使ってわかりやすく提示している。
あたまの部分で随分とレビューがノスタルジックになってしまったが、それもそのはずで今回の観賞は、35㍉のフィルム上映。デジタルにはないフィルムの質感たっぷりの贅沢な企画。久しぶりにかつて劇場で見たときの高揚感と満足感を味わえたからに他ならない。フィルム映画を見るという今となっては貴重とも言える体験はいろいろな思い出を想起させる。