画家フィンセント・ファン・ゴッホの出発点となったとも呼ばれる作品として『ジャガイモを食べる人々』がある。印象派の影響を受ける前の初期作品であり、ランプの灯りの下でジャガイモを食べる人々を暗い色調で描いている。本作もランプの灯りの下でジャガイモを食べる人々(と言っても二人だけだが)を描くモノクロ映画である。だが二作品はまるで異なった印象を与える。
ゴッホの作品は農民の素朴な生にたくましさを見出している。タル・ベーラの本作にはそのような肯定的な要素は何一つない。それはそうだろう。タル・ベーラは本作で終末の六日間を描いているのだ。天地創造ならぬ天地破壊である。ただし黙示録的仰々しさはそこにはない。これだけ静かに世界が終わると、その静けさ自体に虚無を感じる。本作は「ニーチェの馬」のエピソードで始まるが、ニーチェの「神は死んだ」など本作の静けさと比較すれば感傷的とも思えるほどである。
もっともキリスト教により近づけて解釈すれば、本作に虚無主義を見出すのは誤りかもしれない。なぜなら終末には救済があるからである。二人は最後の審判そして救済を静かに待っているだけかもしれない。ただ、一つのタッチが気になる。
本作は二人の生活を良くも悪くもなくただ淡々と描いている。しかし工夫もなく生でジャガイモを食べようとする行為を描いたタッチには批判のニュアンスを感じた。そこから救済を待つという受動的な精神構造への批判まで感じ取った。もちろん他にどうしようもないではないかと言われればその通りなので微妙なタッチの問題だが。
西洋絵画の歴史では画家は神に次ぐ創造主と言われる。現代では映画監督がそうかもしれない。タル・ベーラ監督は本作を「最後の監督作」と言う。終着点となった創造物を再び鑑賞することもあるだろう。そのときはどんなニュアンスを感じるだろうか。