ニーチェの馬

にーちぇのうま|A torinói ló|The Turin Horse

ニーチェの馬

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レビューの数

86

平均評点

73.3(331人)

観たひと

482

観たいひと

102

基本情報▼ もっと見る▲ 閉じる

ジャンル ドラマ
製作国 ハンガリー フランス スイス ドイツ
製作年 2011
公開年月日 2012/2/11
上映時間 154分
製作会社 TT Filmmuhely
配給 ビターズ・エンド
レイティング 一般映画
カラー カラー/ビスタ
アスペクト比 ヨーロピアン・ビスタ(1:1.66)
上映フォーマット 35mm
メディアタイプ フィルム
音声 ドルビーSRD

スタッフ ▼ もっと見る▲ 閉じる

キャスト ▼ もっと見る▲ 閉じる

出演ボーク・エリカ Ohlsdorfer's daughter
デルジ・ヤーノシュ Ohlsdorfer

解説 ▼ もっと見る▲ 閉じる

ハンガリーの鬼才タル・ベーラ監督が“最後の監督作”と公言して作り上げた作品。美しいモノクロの長回し映像で捉えた1人の農夫とその娘の過酷な日常生活を通じて、人間の倫理と尊厳を問う。出演は「倫敦から来た男」のボーク・エリカとデルジ・ヤーノシュ。ベルリン国際映画祭で審査員特別グランプリと国際批評家連盟賞を受賞。

あらすじ ▼ もっと見る▲ 閉じる

初老の男(デルジ・ヤーノシュ)とその娘(ボーク・エリカ)、そして年老いた馬が暮らす、人里離れた荒野の中の一軒家。唯一の収入源は馬と荷馬車だった。父は荷馬車仕事を、娘は家事を行なって日々を過ごす。暮らしぶりは貧しく、毎日は限りなく単調。熟練の動作と季節の変化、一日の時間によってリズムと決まりきった仕事が与えられるが、その重荷が残酷に彼らにのしかかる。日常生活には、時おり訪れる人々がいる以外、これといった事件は起こらない。だが、その単調な日常に微かな異変が起こり始める。木食い虫は鳴くのをやめ、馬はエサを食べず、ついに井戸が枯れる。そのため男は、娘と馬を連れてこの家を出て行くことを決意する。だが、2人と1頭は家の前の丘を登り切ったところで、何故か引き返してくる。とうとう火種もつき、男と娘は生のジャガイモの食事を前にして、ただただ沈黙するのである……。

キネマ旬報の記事 ▼ もっと見る▲ 閉じる

2012年2月下旬決算特別号

UPCOMING 新作紹介:「ニーチェの馬」

2012年2月上旬特別号

「ニーチェの馬」:タル・ベーラ[監督]インタビュー 最後に語るものは本質的なことでなければならない

「ニーチェの馬」:作品評 右を奪われた夜の向こうに

2012年1月下旬号

REVIEW 日本映画&外国映画 公開作24作品、72本の批評:「ニーチェの馬」

2022/01/30

2022/01/30

-点

映画館/東京都/シアター・イメージフォーラム 
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日々の生活とその厳しさ

全てのものを不毛にするような強風、強風に煽られるコート、馬具を取り付けたり、外したりする動作、老人のブーツの脱ぎ履きや洋服の着替えを手伝う娘の動作、じゃがいもに塩を振りかけ、黙々と食べる動作(最初のシーンは父の雑な食べ方、次は娘の丁寧な食べ方、その次からは父と娘のじゃがいもの食べ方の対比が見られる)そういった一つ一つの動作が、日々生きることの難しさ、辛さ、水や食糧の大切さ、自然の過酷さ、などが言葉がなくとも音楽と共に明確に伝わる。(余談だが、ゴッホの「ジャガイモ食べる人々」はこの時代より少し前であり、地理的にも少し違うと思うが、貧しい人たちの当時の食糧事情が理解できる。ゴッホの方は貧しいながらも皆んなで食べる楽しい雰囲気があるがこちらは食事を楽しむような心境ではなく、生きるためにお腹に食べ物を入れているに過ぎない)

強風が吹き荒れる中、そもそも余裕のない親子に馬が精力を無くして役に立たなくなり、親子の生命線である水も枯渇し、水を求めて移動するにも行き場もなく、親子の体力も消耗し、更にはじゃがいもを茹でる水がなく食べる気力もなくなる。生きることの辛さや厳しさが映像美共に味わえる傑作。

2021/11/12

100点

レンタル/新潟県/TSUTAYA/蔦屋 白根店/DVD 
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【此の世の終わり】

『1889年トリノ街頭、フリードリヒニーチェは鞭打たれる馬に歩み寄り抱き付き、発狂。その後二度と正気に戻る事は無かった…。』
~ニーチェ晩年の有名なこの逸話をはじめて聞いた時、私は心底恐怖した事を憶えている。
その逸話に「一人の偉人の発病の瞬間」とゆう次元を超えた「この世の終焉」を-何故か-確かに-感じたからだ。 勿論1889年以降も世界は滅びる事など無く、今私の生きる21世紀へと続いている。だから何も怖れる事無い筈なのに…。


2012年、タルベーラ「ニーチェの馬」。

タルベーラもあの逸話に「世界の終焉」を見ていたという事か。 その事に驚くと共に、今までずっと理解出来なかった私の恐怖の正体を識る。




終わっていたんだ。
その事に気付いていなかっただけで。
世界はあの瞬間に。




私達は終焉した世界を生きている。
その“気付き”を私に付与した本作に最大級の敬意を込め〈最高峰級認定〉を。

-ただ私はその“気付き”に吐き気を催すしかなかったが-。



この映画は見たくはなかった。




《生涯最高峰級認定/DVD観賞》

2021/02/13

2021/02/13

50点

その他/図書館DVD 
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圧倒的なニヒリズム

今の私では評価できない作品の一つだ。
なんて硬派な映画だろう。スタート20分までセリフすらない。ただ農家の貧しく苦しい日常を同じBGMで淡々と描く。映像に映るのは家、じゃがいも、馬、井戸、ときどき村人ぐらい。これが延々と2時間半も続くので、もはや忍耐の映画と言っていい。いつやむかわからない強風が吹き荒れ、世界の終末を感じさせる不穏な雰囲気。世界が終るのを、非常に小さく緩やかに闇の中へ終わらせていくのが重ぐるしく、ずしんとくる。
これはどう解釈すればいいのだろうか、ニーチェだろうか?終末論的な展開に当惑する。

2020/12/20

2020/12/21

-点

レンタル/東京都/ゲオ 
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反復の先にある終末の予感

上映時間が7時間18分にも及ぶタル・ベーラ監督の『サタンタンゴ』を見ようと決心した方の多くがこの『ニーチェの馬』に衝撃を受けたからではないか?と勝手に想像した。ハンガリーの巨匠タル・ベーラの『ニーチェの馬』を今回初めて見て同じく衝撃を受けた。

世紀末的な終末感が半端ない。絶え間なく吹き荒ぶ風の音とあの反復される印象的な音楽が見終えた今も耳から離れない。この世の終わりに向かう数日を慎ましく生活する農夫とその娘、二人が世話する一頭の馬を通して描いた作品。反復される日常。その日常を覆うように止まない強風が漠然とした不安を掻き立てる。その風がぴたりと止んだかと思うと不気味な静寂と闇があたりを支配する。油はあるのに火の灯らないランプ。見る側の気持ちにひたひたと分け入ってくる怖しい作品だ。

川本三郎氏のインタビューによれば、休筆が続いているつげ義春氏が息子さんと観賞してとても感動したという。なるほど。これはまさに、つげ義春の作品世界そのものではないか?荒野にある一軒家が、つげ氏の場合、港町の商人宿あるいは山奥の民家、糧となる「ジャガイモ」が「いか」に変わっただけ。その描写は、まるで「つげ義春」の心象風景そのものだ。

ただひとつタル・ベーラがつげ氏と違う点。執拗なくらいの長回しで伝えたかったことは、日常の中の極貧ではなく反復だろう。セリフは極端なくらいに少なく、1日目から6日目まで、生活への眼差しが粘着質とも取れる長回しで延々と続く。見つめることに強い執着がある。そのこだわりは、見ている我々の息をも飲ませる。タル・ベーラの見つめる先にある暗転には深いため息しか出ない。

2020/04/17

2020/04/17

97点

レンタル/北海道/TSUTAYA/TSUTAYA 札幌大通店/DVD 


この映画はすごく引き込まれる。配役、風景、建物、音、暮らし、炎、布、音楽が良かった。
この監督の映画は倫敦から来た男も良かった。
深く考える時間のある映画。こういう映画をもっと見たい。
ゴダールは言葉が多い。この映画は言葉は少ないが詩的な感じがする。

2020/02/08

2020/02/15

84点

映画館/東京都/早稲田松竹 
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ジャガイモを食べる人々

 画家フィンセント・ファン・ゴッホの出発点となったとも呼ばれる作品として『ジャガイモを食べる人々』がある。印象派の影響を受ける前の初期作品であり、ランプの灯りの下でジャガイモを食べる人々を暗い色調で描いている。本作もランプの灯りの下でジャガイモを食べる人々(と言っても二人だけだが)を描くモノクロ映画である。だが二作品はまるで異なった印象を与える。
 ゴッホの作品は農民の素朴な生にたくましさを見出している。タル・ベーラの本作にはそのような肯定的な要素は何一つない。それはそうだろう。タル・ベーラは本作で終末の六日間を描いているのだ。天地創造ならぬ天地破壊である。ただし黙示録的仰々しさはそこにはない。これだけ静かに世界が終わると、その静けさ自体に虚無を感じる。本作は「ニーチェの馬」のエピソードで始まるが、ニーチェの「神は死んだ」など本作の静けさと比較すれば感傷的とも思えるほどである。
 もっともキリスト教により近づけて解釈すれば、本作に虚無主義を見出すのは誤りかもしれない。なぜなら終末には救済があるからである。二人は最後の審判そして救済を静かに待っているだけかもしれない。ただ、一つのタッチが気になる。
 本作は二人の生活を良くも悪くもなくただ淡々と描いている。しかし工夫もなく生でジャガイモを食べようとする行為を描いたタッチには批判のニュアンスを感じた。そこから救済を待つという受動的な精神構造への批判まで感じ取った。もちろん他にどうしようもないではないかと言われればその通りなので微妙なタッチの問題だが。
 西洋絵画の歴史では画家は神に次ぐ創造主と言われる。現代では映画監督がそうかもしれない。タル・ベーラ監督は本作を「最後の監督作」と言う。終着点となった創造物を再び鑑賞することもあるだろう。そのときはどんなニュアンスを感じるだろうか。