ごつい感じのマレーネはジーンの引き立て役みたいにも見える
敗戦直後のベルリン。「鼠がチーズを食い散らかしたよう」というセリフが示すように空襲のためにがれきと化したビルディングが見られるのは今となっては貴重な映像である。こういう風景をカメラに収めるのはタイムマシンで過去へ行ったような気分。劇映画であると同時に記録映画にもなるのである。それが昔の映画を観る楽しみである。
ビリー・ワイルダー監督のロマンチック・コメディであるが、こういうのを背景にしているのは違和感がある。だがビリー・ワイルダー監督がドイツの出身であることを考えると、ビリー・ワイルダーは映画の撮影にかこつけて故郷の様子が見たかったのではあるまいか。ワイルダー監督は戦前にマレーネ・ディートリッヒと共にベルリンにいたということである。またこの映画は原作がなく、ビリー・ワイルダーとチャールズ・ブラケットのオリジナルシナリオであるから、やはり懐かしきベルリンがどうなっていたのかこの目で確認したかったのに違いない。
敗戦後のドイツも日本と同じようだ。食料不足に陥っていたようだし、占領した米軍兵士が羽目を外した行動に出ていることも日本と同じようだ。この映画では直接、米兵が地元の女性をレイプしたという描写はないが、実際はあっただろうなと思う。当時の倫理コードからもまたアメリカ映画であるから米兵を極悪に描くのはまずいということもあるからそんな描写は入れない。そうでなくともロマンチック・コメディだからレイプを入れるわけにはいかないよなあ。
だからシリアスなドラマでベルリンを舞台にした方が良かったんじゃないかなあと思う。背景がビルの残骸でドイツ市民は食べるものに事欠いていたのに、ロマンチックもへったくれもないというところか。
しかし、ビリー・ワイルダー監督もマレーネ・ディートリッヒもそんなことは百も承知だっただろう。ましてや故郷のドイツ・ベルリンがこんな有様では内心コメディじゃないよと思っていただろう。だけどこの時期に映画会社がロマンチック・コメディを撮れという注文が来たのではないか。これでないと映画も作れないので引き受けたと思う。監督は自分は芸術映画は作らない。娯楽映画に徹すると言っているので、会社の注文に答えないと、ベルリンを見られることができない。そこで妥協してベルリンでコメディを、ということになったのではなりだろうか、というのは僕の推測。
マレーネ・ディートリッヒとジーン・アーサーというスター女優の共演というのが見どころ。したがってこのふたりの相手役を務める男優はちょいと下のクラス。ふたりの女優は同格だろうが、役柄でいくとジーンがメイン、マレーネがサブという印象だ。ジーンはベルリンに進駐している米兵の風紀を調査しにきた議員という役。マレーネ扮する地元の闇酒場で歌っている歌手でナチスの協力者だというのにお咎めなしというのがおかしい。きっと彼女には米軍の将校クラスの愛人がいるから平気で歌っていると思い調査を始める。一緒に調査する羽目になったジョン・プリンクル大尉(ジョン・ランド)こそが彼女を愛人にしていたのだった。ところが、ジーンが彼に失恋話をしていくうちに、知らず知らずのうちに彼に恋をしていたという話。彼女は惚れやすいタイプなのか彼とのつきあいに有頂天。だが大尉はマレーネと恋人同士なので、それがジーンに知られてしまうのは非常にまずい。大尉がマレーネとジーンに挟まれてハラハラするところが、ジョン・ランドもコメディだからといって大げさな芝居をしないのが良い。それでジーンがマレーネと大尉の仲を知り大変なショックを受ける。だがそのあと、大尉と一緒になるという顛末までこれだとジーンが主役という感じだ。
それでマレーネがなぜサブで甘んじているのかと言えば、闇酒場に米軍の手入れが入り議員の素性がばれてはまずいジーンをマレーネが助けた後に、ベルリン市民が生き延びるのに必死だということを語る場面にあるようだ。ワイルダー監督としても彼女としてもベルリンがこういう状況でドイツ人は大変なことになっていることを、アメリカの観客に伝えたいからだと思う。
この映画は日本では劇場未公開だ。なんで未公開なのかはちょっと考えればわかるだろう。いくらコメディだからといってこの映画に描かれる米兵は軽薄な連中である。上官が訓示を言っている場面で「人口増加に貢献したり、物を売って金儲けなんかしないように」ということを具体的にこの映画では描いている。そこでGHQとしてはこういうだらしない米兵の姿を日本人に見せるのはよろしくない、と判断したからだろう。
でもこういう風刺がワイルダー監督の真骨頂である。