人生は選択の連続である。細かな決断の結果が、今の自分である。進学に就職、そして結婚相手が変われば、また違う人生であったかも知れない。あの時、違う決断を下していたら、今とは極端に異なる人生を歩んでいた可能性も否定出来ないではないか。
ニモ(ジャレッド・レト)は、2092年の世界でただ一人死ぬことが出来る存在になっていた。他の全人類は、不死を手に入れていたのだ。死期を間近にして、思い出そうとした過去は、幾通りもあった。彼の真の人生はどれだったのか。それとも本当に全てを経験していたのか。父か母か、そして結婚する三人の女性の選択により、ニモの人生は12通りに分岐する。それはまるでRPGをプレイしているかようだ。行き着く先にはいくつかのゲームオーバーも用意されている。その時ニモは、ゲームをリセットするかのように、運命の分岐点に戻っては、違う道を選んでみるのだ。
実際の人生では、こんなパラレルワールドを体験することは出来ない。しかし、時に人は想像したくなる。あの時、違う決断をしていたなら、どんな人生が待っていたことだろう。それは確かめることは出来ない。分岐点に戻ってやり直すことはできない。だから、本当はそんなこと考えるのは無意味なのだろう。人生はやり直しの利かない一発勝負なのだ。
ニモの最初の決断は、両親を選ぶことから始まる。子供は親を選べないというのが世間一般的な常識なのだが、とにかくニモは数多のカップルの中から、一組を選ぶのだ。自分で親を選んでしまったのなら、もう親に「産んでくれとは頼んでない」なんて言えない。そして、青、赤、黄と色分けされた三人の少女。三人はそれぞれニモと結婚することになる。青のエリース(サラ・ポーリー)と赤のアンナ(ダイアン・クルーガー)、そして黄色のジーン(リン・ダン・ファン)。一方通行の愛、相思相愛の愛。その方向性の違いで、真の幸せな関係とは何かを提示しているように思われる。
「もし選択しなければ、全ての可能性は残る」
この言葉の意味するものとは何だろう。ニモはもしかしたら、まだ何も選択していないということはあり得るだろうか。ならば今、ニモはどの時間にいるのだろう。
「人生にはほかのどんなことも起こりえる」
確かにその通りだと思う。自分の身の上に、今何が起こっても、何の不思議もないだろう。この映画を観た後では、その思いは確信に至った。
本人の意思による選択とは別に、他人の影響による運命の変化をバタフライ効果で表現している。蝶の羽ばたきが、遠い場所での気候に変化を及ぼしているかも知れないという、例のカオス理論である。我々はそれを運命と呼んでいるのかも知れない。自分の力では、どうにも抗うことの出来ない大自然の、いや宇宙の予測不可能な不確実な影響である。
2092年の未来の地球や火星旅行の描写など、かなり資金をつぎ込んでいる。そしてエントロピーや超ひも理論などを取り入れて、物語は壮大な宇宙論にまで辿り着く。宇宙はビックバンとビッククランチを永遠に繰り返しているのだろうか。時は逆再生するのだろうか。再びビックバンで宇宙が膨張を始めたら、また同じような地球は出現するのだろうか。我々はどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか。人類永遠のテーマ、そしておそらく結論の出せない問題。それでも、我々はそれを考えずにはいられない生き物のようだ。
人類が不死ならば、もう生殖の必要性はなくなる。そんな世界で回想されるのが、ニモの恋愛模様というのが、とても切なく愛おしい。考えてみれば、人間は死ぬからこそ愛という感情が発達してきたのではなかろうか。人生について、宇宙について、考え直さずにはいられない映画であった。