ダイアン・キートンの今の年齢だと脇役に回るんだけど、今でも主役をやる、というのはめでたいな。
この映画の製作当時はウディ・アレンとダイアン・キートンが蜜月時代。だから、私生活を写し取ったような本作には、イチャイチャするのは家に帰ってやれ、コノヤローだった。でも、この映画を今観ると封切り当初よりも味わい深いものになっている。ウディ・アレン演じる主人公がアニー・ホールと別れた、それを後悔しているという語りで始まるからだ。それを今観ると、この時代にラブラブであったはずなのに、なにか予見したものと捉えられるのだ。まあ、その頃はよもやウディとしては別れるとは思いもよらなかっただろう。ダイアンの方は分からないが。ウディはダイアンと別れてからは、ミア・ファローとの関係が泥沼に陥りごたごたしていたし、これが当人のせいだからどうしようもない。なにしろ養女に性的虐待をしていたからだ。それが「♯MeToo」
運動から、これまでコンスタントに作品を発表により、干されてしまう。たぶんこの頃にはウディはダイアンと別れたことをこの映画の主人公のように後悔しただろう。なんというかね、性的虐待の嗜好はウディにあるけれど、ダイアンと付き合っていればそれも表に出さなかったんじゃないかなあと推察される。犯罪を犯さなくてすんだと思う。
なんとなれば私はダイアン・キートンには他の女優とは違う意味で好きになったからだ。こういっちゃあ何だが、ルッキズムの観点からこういうことを言ってはいけないのは重々承知で言うが、彼女は美人ではない。でも私は彼女の笑顔が大好きなんである。彼女の笑顔を見ていると、彼女が自分のダメさかげんをやさしく許してくれそうなんである。そういったことを他の人が書いた記事で読んだことがないので、これは私だけが感じることなのかも知れない。なんだかこの人と一緒になったら幸せになるみたいな直感、つまりは恋愛感情を彼女に抱いてしまった。もし、彼女が近くにいたら土下座してでもつきあってくださいと頼むなあ、私。
だから、私はウディ・アレンのつまづきはダイアンと別れたことにある、と思っている。
どっちが先に別れ話を出したか知らないけれど(おそらくは彼女の方じゃないか)、ダイアンとしてもウディと別れたのはちょっとまずかったなあと思う。本作を初めとしてダイアンを魅力的に捉えているのはウディの諸作だからである。ミア・ファローと泥沼になったとき、彼女に当て込んだ役をダイアン・キートンが引き受けたことがあるから、ダイアンとしてはウディをイヤになったわけでもなさそうだ。なおさらウディと別れたのはダイアンとしても損だったなあと思う。
本作のダイアンの輝きを見たら、ホントにこのふたりが別れたことは両方にとって痛手だったのでは?と思うばかりだ。ダイアンはウディと組んでコメディ作品に出ていたからてっきりバスター・キートンと関係あるのかなと思ったら全然関係ないんだね。本名はダイアン・ホールだ。この映画のヒロインと同じファミリー・ネーム。ウディはそれを狙ってつけたものなのか。俳優協会に所属するとき、同姓同名がすでにいたので、彼女はキートンと変えた。そのときコメディもやるつもりでキートンにしたのかどうかは不明。