今回の国会で取り上げられている入管法を巡るやりとりを見ていると、日本における民主主義もアメリカ並みに形式的なものに過ぎないことがわかる。新天地の日本に足を踏み入れることも許されず、母国にも帰れない人が収容施設に拘束され、必要な医療も与えられず命を落としたり、自死するものも絶えないという。当然、真の民主主義国家がなせる技ではない。島国とはいえこれほど外国人に冷たい国も珍しいのではないか?
スティーブン・スピールバーグ監督『ターミナル』でトム・ハンクスが演じる男、ビクター・ナボルスキーは、東欧の小国クラコウジアからJFK国際空港に到着し入国手続直前に母国で起こったクーデターにより事実上、国が消滅、国籍を失う。パスポートが無効になったため米国への入国も出来ず、母国への帰国も出来なくなってしまう。結果、亡命や難民申請も出来ず法の狭間に置かれる。米国国境警備局も収容施設で拘束する権限を持たないことから、彼は国際線乗継ぎロビー内で生活することになる。寝場所は改修中の67番ゲートであり、空港施設という限られた空間で、米国に足を踏み入れる日をひたすら待つことになる。ナボルスキーがはるばる東欧からニューヨークに来た理由には亡くなった父親との大切な約束があった。
日本でも国際空港という空間は、ただでさえ異空間という感じがあってそれを端的に表現していたセリフは、「ここで唯一することといったらショッピング!」。アジアの空港のトランジットスペースはどこも狭いという印象が否めないが、JFK国際空港ともなると一つの巨大商業施設であり、そこに勤める人たちの小さな共同体。英語を話すことができないナボルスキーが、持てる学習能力をフルに発揮してターミナル内で何とか生活を成り立たせていく姿が興味深い。言葉の壁の克服と衣食住を空港という特殊な環境の中で手繰り寄せていくあたりが前半の見せ場、ここで彼は空港で働く職員たちと基本的な人間関係を築いていく。
後半は国境警備局の責任者ディクソンと彼の処遇を巡る対立と対決が際立つ。自らのことなかれ主義と昇進の為に、自身の管轄する空港から彼を逃亡させるチャンスを敢えて作るが、ナボルスキーは根っからの真面目さと状況の掴めなさから空港を抜け出ることをしない。こうなるとディクソンは保身から彼に何とか米国の地を踏ませず母国に送還することに腐心する。やがてはナボルスキーの築いた空港職員たちの人間関係にしてやられることになるが、ヒューマンコメディにはこうした役回りも必要。ストーリー展開こそ奇想天外だが、そこはスティーブン・スピールバーグ監督のこと、しっかりとした感動的な幕を用意している。
自分もこれまで幾つか地続きの国境を越えたが国境とは不思議なものだ。本作ではガラスの扉一枚の向こう側が米国ニューヨーク。この論理でいえば、茨城県牛久にある収容施設、入国管理センターも日本とはみなされていないのではないか?だがこの物語はどうもモデルがあるようで驚いた。wikiによればフランス、シャルル・ド・ゴール空港で18年もの間生活してきたイラン人の手記が元になっているよう。ともすると気づきにくい、というか見えない存在とされる「狭間に生きる人たちの存在と苦悩」を国民の一人として意識していかないとならないと深く感じた。と同時にこうした題材を選んでくるスピールバーグの着眼点にも感服した。