映画史上の最高傑作に挙げられるべき、巨匠コッポラの大傑作
ネタバレ
本作はスクリーンでも何度も観ているが、4年前同様、今回も午前10時の映画祭で鑑賞。
3時間20分の長尺だが、本作は何度観てもずっと観ていられる。
本作を初めて鑑賞したのは17歳の頃。
地元の小劇場で1月1日に鑑賞した。
が、中3の頃にレンタルビデオで観た第一作に比べてあまりに複雑な内容で、観ていてしんどかったことを覚えている。
ロバート・デ・ニーロ演ずる若きビトーのパートは最高だったのだが、とにかく現代のマイケル編の人間関係がつかめなくて、ストーリーもとても分かり辛かった。
その後、「ゴッドファーザーPARTⅢ」が公開された1990年、日比谷スカラ座で第一作とセットで公開された時も観に行ったが、やはり同じ印象だった。
が、2001年に三部作をセットにしたDVDコレクションが発売され、それを購入して3本続けて観た時に、この第二作の出来栄えに圧倒された。
この第二作には人の一生、あるいは人間が生きている社会、そういったものが全て詰め込まれて描かれているように感じられた。
本作では人間の様々な姿が描かれている。
生と死、親子、夫婦、兄弟、仕事、老い、プライド、政治、権力、更には金銭欲や名誉欲といった猥雑な欲望も含めて、第一作以上に人間そのものが描かれているように感じられて、心の底から圧倒され、そして感動した。
通常、続編とは第一作の後日談を描くものだが、本作は第一作の主人公であるビトーの若き日と息子マイケルのその後を描き、これまでの映画史においても類を見ない圧巻の叙事詩に仕上がっている。
第一作を軸にして、この第二作では人間の人生とはどうあるべきなのか、人間の社会とはどうあるべきなのか、人間はどう生きていくべきなのか、といった問いが壮大なスケールで投げかけられている。
本作のラスト、若き日のマイケルが「自分の人生は自分で決める」と言い切って、軍隊に入隊したと語る回想シーン。
この時、兄のフレドーは「偉いよ、おめでとう」とマイケルの手を握る。
その兄をマイケルは、組織の論理に基づいて粛清したのである。
若きビトーは、家族を守るために組織を作り、やがてはそれをファミリーと呼ぶほどの強大な組織へと拡大させていった訳だが、それはあくまでも家族や同胞を守るためであった。
だが現代編のマイケルは、逆に組織を守るために妻を追い出し、兄の命まで奪ってしまう。
ビトーの姿と対比して描かれるこのマイケルの姿がもう哀しくてたまらない。
もともとは父の仕事を嫌い、理想に燃える青年だったのに。
一体何でこうなってしまったのか。
1人、庭でマイケルが孤独にたたずんでいるラストカット。
もはやマイケルのことを慕い、愛情を込めて接する者は誰もいない。
だが妻のケイを自ら追い出したはずのマイケルの左手の薬指には、まだ指輪がはめられている。
このマイケルの感情をどう受け止めたらいいのだろう。
時代が違うと言っては簡単だが、父ビトーの若き日々と、今を生きるマイケルを対比させることで、この映画は人間の人生というものを哀切を込めて描いている。
本作については、テーマしても脚本にしても、出演陣の演技にしても、音楽についても映像についても、更にはアカデミー賞という観点でも、語りたいことが多々ある。
特にマイケルを窮地に陥れるハイマン・ロスの陰謀の闇の深さ、そしてその陰謀の行き着く先の公聴委員会でのフランキーの役回りが、実はクレメンザを想定していたということを知ると、この映画のあらゆる点での奥深さに恐れ慄くばかりである。
本当にこの映画については、語り尽くせない。
この「ゴッドファーザーPARTⅡ」という作品は映画史上の大傑作である第一作に、勝るとも劣らない出来である。
むしろ完成度という点ではその出来栄えを上回ると言っていいほどである。
巨匠フランシス・コッポラが描いた本作は、あらゆる点において映画史上の最高傑作の一本に挙げられるべき、本当に見事な見事な大傑作であると思う。