恐ろしく偏見に満ちた映画である。女性がコテンパンに痛めつけられれ、麻薬を黒人に売りつければいい、などという発送が1940年代のアメリカに存在したことをくっきりと示す映画だ。しかしそれでもこの映画はアメリカ愛にあふれている。パート2へとつながる話題かもしれないが、ビトーがアメリカに渡って移民として過ごした頃は、街全体がファミリーだった。しかしファミリーの栄華は長く続かない。力でねじ伏せることの苦しさを、残酷なシーンを並べることで対比的に表現した傑作である。
(あとは読まなくて結構です。)
冒頭のこのセリフ「アメリカはいい国です」という葬儀屋の言葉は、この映画のアンチテーゼだ。1970年代に作られたこの映画、マフィアを美化したようなニュアンスもあるが、むしろ第二次大戦後の暗黒街をリアルに描くことで、「いい国、アメリカ」を真っ向から否定するような内容になっている。中でも女性や黒人に対する蔑視は激しい。前のレビューにも書いたが「ムーンライト」という映画がよぎる。貧しい黒人を麻薬漬けにしてマフィアが金を稼ぐ。そんな手口が描かれる。
このあとパート2でカジノ、パート3では宗教を支配しようとするマイケルのジレンマは、父ビトーとはまるで違う。ビトーがのし上がった時代は、街を支配するボスを敵にすれば誰もがビトーを信頼した。しかしマフィアも家族も増え、トップに躍り出るとその立場を維持するのが苦しくなる。
あらためてこの映画がマイケルの映画なのが伝わる。たまたまマフィアのボスを父親に持ったマイケルが、兄を殺され、家族が分裂する過程で、自らがコルレオーネを支配するに至るまでの物語。この壮大なテーマが示すのはアメリカそのものである。
印象的なシチリアのシーンで、街の壁にソビエトの国旗が飾られているシーンがある。その後、兵士がマイケルたちを追い越してゆくのだが、ここも時代を象徴する。シチリア地方は共産圏に支配され、マイケルは敵のボスと汚職警官を殺したあと、共産圏のコルレオーネ村に逃げていたのである。映画の中で社会的なことはあまり描かれていないが、唯一このシーンに当時の世情を忍ばせている。
技術的には申し分のない作りで、どのシーンにも工夫がある。冒頭の葬儀屋が相談にくる暗いシーンで、人物からカメラがパンアウトすると画面手前に手の仕草がなめる。彼に酒を、という言葉のあと、ビトーの表情が画面に大写しになる。いまは誰もが知るシーンだが、当時40代のマーロン・ブランドがこのメイクでスクリーンに現われて誰もが驚いたことだろう。
『山猫』や『悪い奴ほどよく眠る』などを意識したと言われる最初のパーティシーンも見事。ここでほとんど家族構成を語り尽くす。冷めたマイケルがケイに家族を紹介するシークエンスは緊張を予感させる。
今見直すと、ビトーが映画のかなり前のほうで射殺される。ただ泣き崩れるだけのフレド、怒りにブチギレるソニー、冷静なトム・ヘイゲンなど、どのキャラクターも生きている。そして個性的な家族を支配するビトーの存在を際立たせている。
そして何よりこのシリーズのシーンで印象的なのはドアだ。ドア枠を使い、その向こうと手前で遠近感を出し、人物間の隔たりを明確にする。とくにいずれの作品でもダイアン・キートン演じるケイを軸に、ドアが閉められてゆく。ケイはこの社会とは無縁であるべきだ、という立ち位置を崩さず、ドアの向こうでマイケルがひそひそと話をするシーンなどで、生きる世界の違い、交わらない人生の境界線を描こうとしている。