「午前十時の映画祭」
この映画祭の上映ラインナップで、80年代の映画については封切りロードショーで観たものが多い。そうなると不思議なことに過去の名作という色合いが抜ける。
少なくとも「懐かしい」という感覚に乏しいのは80年代から映画はビデオ市場と併走することになったからだろう。一度パッケージソフトとしてカタログ作品になってしまうと、ビデオショップの棚に基本在庫として身近に存在し続けることになる。
とくに『アマデウス』のようなクラシック音楽を題材とするドラマがビデオ屋の商売にどこまで貢献したのかは別として、やはりオスカーウィナーを外すことはできない。
自分がやっていた店でも『アマデウス<ディレクターズ・カット版>』はVHS二巻組の厚めのパッケージで最後まで陳列されていたことを思い出す。
それでも公開からすでに四半世紀が経つ。この映画は有楽町の日劇跡に新設されたばかりの有楽町マリオンで観た。
その映画館の階下にあった西武百貨店がこの年末で閉店するというのだからやはり25年はそこそこの時間であるに違いない。
しかしモーツァルトという巨大な存在がある限り『アマデウス』という映画は永遠に色褪せることはないのではないか。
今回、25年ぶりにスクリーンで再会して、改めてその意を強くした。
今回上映されたのは、松竹富士から最初に封切られたものよりも20分長く、上映時間180分という大作としてワーナーブラザーズが再公開したディレクターズ・カット版だ。
正直言うと長くてしんどかった。
さすがにどの場面が20分追加されて、ミロッシュ・フォアマンがどのように再編集したのかはさっぱりわからなかったが、やはり3時間はきつい。付け足された20分間ぶんは散漫に観てしまったのではないか。
そもそも、この長さ楽しむのには、オペラや宮廷音楽などクラシックにある程度の素養が必要なのではないかと思ってしまう。
現実、『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』などの舞台模様など、楽曲が作られた経緯を知っていれば、映画との虚実皮膜を楽しめたのだろうし、純粋にドルビーデジタルサウンドによる音楽にも酔いしれることもできたのかもしれない。
さらに当時のザルツブルグがオーストリアではなく、ドイツ国という概念でもなく、あくまでも「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」だったという時代背景が前提にあり、そこがまったく無知であるため、モーツァルトが皇帝に「ドイツの心、それは愛です」と宣言し、ドイツ語オペラを企画する件など、モーツァルトの信条を理解するには至らないもどかしさもあった。
もっとも25年が経過して、『アマデウス』はサリエリを演じたF・マーリー・エイブラハムの苦みばしった表情とトム・ハルスのモーツァルトの「キャァハハハ~」という奇声しか印象に残っていなかったので、おそらく封切り当時から前のめりに観ていたわけではなかったのだろう。
ただ、クラシック音楽には無知な私でも、巨匠モーツァルトに対して、映画は相当にカリカチュアライズして描いたことだけはわかる。
奇声を発しながら女の尻を追いかけ、卑猥な言葉を連発する下品極まりない行動の数々。実際のモーツァルトの実像がそれに近かったのかもしれないが、そこを遠慮なしに描いたのはすごかったと思う。
もともと脚本も担当したピーター・シェーファーの書き下ろした戯曲の映画化だということだが、モーツァルトの心酔者からはかなりの顰蹙を買ったらしく、だからこそオスカーに結びついたのではないだろうか。(因みにピーター・シェーファーはかの『フォロー・ミー』の脚本家でもある。)
そして今回の観賞ではもうひとつの当たり前に気がついた。
映画はモーツァルトよりサリエリこそカリカチュアライズしていたのではないかということ。
実際、35歳という早すぎるモーツァルトの死の陰にはサリエリによる謀殺説もあるようで、まさか映画のように、レイクエム『魔笛』を書かせるため、変装までして衰弱していたモーツァルトを追い込んで死に至らしめるなどということはなかったにしても、天賦の才能に嫉妬し、魂を悪魔に売った挙句に精神病棟で廃人扱いされるまでのサリエリをよくぞ描ききったものだと思う。
サリエリの腸が煮えくり返るほどの憎悪の対象としてのモーツァルトだからこそ、あのように良識派の眉をしかめさせるようなキャラクターが必要だったのだろう。
確かに凡庸な私でさえ、あまりにもかけ離れた才能を目のあたりにし、しかもその主が下品でだらしない女たらしの若造だったというのでは、才能に生きる芸術家として、神を呪いたくなる心情は想像がつく。
モーツァルトを熱演したトム・ハルスもオスカーにノミネートされていたが、やはりF・マーリー・エイブラハムこそオスカーに相応しかった。
『アマデウス』はモーツァルトではなくサリエリの映画だった。