24年ぶりの鑑賞になったが、改めて見ると粗が目についた。
テトラと祐介ら4人の絆を育むパートが序盤終わりごろのダイジェスト(『アトムの子』が流れるところ)で済まされるせいでテトラたちの友情が薄味に見えるとか、ガンゲリオンの操縦訓練パートがあっさりしてていまいちクライマックスでの「ガンゲリオンを動かせるのは俺だけだ!」という祐介の宣言に結びつかないところとか、鳴り物入りで登場したガンゲリオンがボイド人の宇宙船を倒せないところとか(多分、相手が極悪宇宙人とは言え子供に殺しをさせることはできなかったんだろうし、当時のCGの限界もあったのだろうが)、神崎はボイド人に拘束されてもすぐ目覚めたのに範子ねえちゃんはなんで意識が戻らず何日も自販機の中に閉じ込められてたのかとか、シースナッチャー脆すぎじゃないかとか、ツッコもうと思えば結構ツッコめる作品ではあった。
だが、僕はそんな本作を嫌いになれない。むしろ大好きだ。それは本作に、少年の頃一度は空想した「夢」と、もうかすれた思い出になってしまった「原初の青春」が詰まっているからだ。
「夏休みのある日少年少女たちがロボットと出会い、友情を育む」「地球で人知れず進んでいた、悪の宇宙人の陰謀と戦う」という、SF少年なら一度はフィクションで見て、「僕の身にもこんなことが起こらないかな」と妄想したであろう内容が具現化したような本作は、理屈ではなく見ていて楽しい。子どもたちがテトラと出会い、青春を謳歌し、神崎と知り合ってタイムマシンの理論に目を輝かせる様子には心が躍った。
ガンゲリオンも、市販のモニター寄せ集めの狭いコックピットのあの「急造感」が最高にかっこいいし、プレステのコントローラーで動くガンゲリオンには他のSFロボットにはない、日常と隣接した「現実感」があって最高にワクワクする。
なにより本作は「僕達のそばにはテトラも神崎もいなかったけど、こんな事あった~!」というノスタルジーを強く刺激してくる。
例えば「大人たちに内緒の、4人だけの友達であるテトラ」。繰り返しになるが、我々はテトラと出会うことはなかったけども、「大人たちには内緒の自分たちだけの秘密を共有する体験」は絶対にあったはずだ。内緒の秘密基地だとか、河原のエロ本だとか。自立には程遠く大人の庇護下にあった子供時代、口うるさい(と当時は思えた)大人たちの目を逃れて「自分たちだけの秘密を共有する」体験は友情を強く補強してくれたし、「どうだ、俺達はうるさい大人の鼻を明かしてやったぞ!」という喜びがあったはずだ。
「勝手にスクラップ置き場からテトラの新しいボディの材料をくすねる」「神埼の家に忍び込む」とかも、明らかに犯罪ではあるのだが、これにも僕は劇場で「わかる~!」と頷きまくった。なぜなら子供時代「ルールを破る」こと、ワルであることはカッコよかったからだ。
プロアクションリプレイなどの改造機器でゲームを改造する。学校にマンガや育成ゲーム(僕の幼少期はたまごっちやデジモンなどの育成ゲームブームの真っ只中であった)を持ち込む。大人を伴わずに遠出する。そんな小さな「ワル」にはスリルと、先程述べたのと同じ「大人の鼻を明かしてやった」というささやかな勝利の喜びがあったし、それを成した大バカ野郎は教室のヒーローだった。僕のかつてのクラスメイトには「1階の理科室の窓に消しゴムを挟んでおき、施錠されていない理科室の窓から深夜の学校に忍び込んだ」というツワモノがいた。今だったら機械警備に引っかかって即・御用だろう。
本作には、大人になった僕らが失ってしまった「青春の原風景」が詰まっており、別に泣かせる場面でもないのに「そうだ、俺達にもこんな青春があったんだ」というノスタルジーが涙腺を刺激してくる。加えて、僕は幼少期、祐介たちと同じように近所にスクラップ置き場があり、管理人が姿を見せないのをいいことに同じ団地に住む仲間たちとそこを勝手に「秘密基地」と称して溜まり場にしていたことから(トーゼン大目玉を食らいました。関係者の皆様とそれに対応してくれたお母さん・お父さん、あのときは本当に迷惑をかけました。ごめんなさい)、祐介たちがスクラップ置き場でパーツをくすねたり、管理人に追われるシーンにはかつての青春を重ねて勝手にグッと来ていた。
客観的に見れば決して名作・傑作ではないが、個人的には生涯忘れることはないだろう、青春と夢の詰まった傑作。
令和以降、こういう「夏映画」が人間には足りてないと思うんすよ。人生には「夏映画」が必要。