市井に住む本屋と映画スターの恋愛をリアリティがないと言って馬鹿らしく思う人は、映画に何を求めているのですか?と言いたい。リアリティはないけど、映画に夢を求めるならば、これで良い。近頃は娯楽映画に哲学や社会性を持ち込んで考えさせるものが多い。もちろん考え込ませる映画というのも必要である。考えることは良いことだ。
でも、それがあまりにも多くて気楽に楽しむ映画が少なくなった。現代の人は映画に娯楽や夢なんか求めていなくて、
この社会の在り方とか、自分の人生は何のためにあるのかとか考えるための教養を求めているんだろうか。
私などは世間の憂さを晴らし、スカッとしたいし、気楽の楽しむことを映画に求めているんだが、これは現代人の映画に対する嗜好とはズレているんだろうか。
しかし、この映画は好評で大ヒットしたのだから、やはり世間でも映画には夢を求めているんだなと思って安堵する。
本作自体もあのロマンチックな映画史上に名を遺した名作「ローマの休日」を元にアレンジして製作したと思われる。特にラストの記者会見などはそれをずいぶん意識させられる。王女と一介の記者のラブストーリーなどはこの映画よりもリアリティなんかは無い。だけどオードリー・ヘップバーンの人気を未だに続くものにした名作となった。
あの時代はそんな絵空事でも良かったが、20世紀も終わりの1999年に作られた本作はあの傑作よりも少しはリアリティを出さなきゃいけない。そうしないとリアルでないものに対する冷ややかな眼を持つ現代人に受けない。
そこで市井の人が映画スターと恋をするというところは夢物語にしてもヒュー・グラント扮するウィリアムの知人たちはどうも世間に合わせて生きることが苦手な人物ばかりというところにリアリティを設定させた。
交友関係というのは大事だし、いざというときには助け助けられることになるのだから大事なんだけど、そうはいっても、周囲に合わせて生きるというのが苦手な人だっている。孤独に生きる人は図らずもそうなってしまった人もいようが、こうやって誰かと付き合うのがダメな人もいくらかいるだろう。または、孤独な方が生きやすい人だっているしね。私も実はそんな性格。映画好きになったのも、相手がいらないからという面もある。一緒に観る人がいるのも楽しいわけだけど、それだと相手に気を遣って映画に集中できない。映画を観るのはほとんどひとり。だけど観た後、映画の感想を誰かに話したくなる欲求はある。その欲求を満たすのがこのKINENOTOであるから、ますます孤独に生きることになるなあ。
またキャスティングも良かった。掛け値なしの映画スターというのはその製作時点ではジュリア・ロバーツというのは最適であろう。2024年の現代だと誰だろうと考えてハタッと気が付いたが、今はホンモノの映画スターというのがハリウッドにもいなくなったということだ。70年代くらいから邦画の各映画会社が映画俳優を育てなくなり、テレビタレントを起用して製作するようになって、映画俳優が少なくなっていったが、今のハリウッドも主役級の俳優が邦画同様に小粒になったのだ。現代での華やかな映画スターというのがハリウッドでもいなくなったのだなあ。私はスカヨハは大好きなのだが、でも彼女が映画スターという厚みはあまり感じないし。この点でも現代人はあまり映画に夢を求めていない傾向だと感じざるを得ない。
ヒュー・グラントの良い人感もこのリアリティのない話に説得力を持たせる。映画スターがフラッと立ち寄る店の店員に惚れるなんて嘘臭いけど、彼の前身からあふれる善良な人のイメージというのは、魑魅魍魎が跋扈するショービジネスで生きる映画女優としては、彼には安心できるのだろう。ヒューの個性で一目で感じたのであろうというのは納得できる。
それにこの映画スターには恋人がおり、この恋人であるハリウッドスター役がアレック・ボールドウィンなのが絶妙だな。彼を見て、一発でこのスター女優は彼氏には距離を置いているのがワカルんだなあ。ハリウッドとロンドンという地理的にも心理的にも距離がある。彼の軽さは演技以上にそうした雰囲気があるからね。この絶妙なキャスティングだけど、クレジットタイトルに名前はない。カメオ出演だ。私はヒューがジュリアを訪ねた時に、アメリカから恋人が来ていると慌てる場面で、アレックが出てきたところで笑った。おお~っ、ナイスキャスティングと思った。
このキャスティングだと、うまくこの作品世界に乗せられて夢物語にしばし良い気分に浸れた。映画にはいろんなものを求める欲張りな私だが、基本は世間の憂さを忘れさせるこういう夢物語で、それがあるから映画が好きなのだ。